紀元前から続く天皇家ですが、明治以降に天皇の退位禁止が皇室典範によって規定されるなか、2019年(平成31年)に譲位と言う形で新天皇が即位することになりました。皇位継承(こういけいしょう)にあたっては、代々伝統に則った様々な儀式が行なわれていますが、時代をさかのぼると少しずつ形を変えており、現在は残っていない様式もあります。そのひとつが宝器(ほうき:大切な宝)である「大刀契」(だいとけい)の継承です。かつては天皇の証とされていたと言う、宮中に伝わった宝器についてご紹介します。
三公闘戦剣
大刀契は、レガリア(皇室や王家などに代々受け継がれ、それ自体が王権の象徴となるような物)のひとつでした。
大刀2振と節刀(せっとう:天皇が戦地へ行く将軍または遣唐使に持たせた、任命の証の刀)数振、何種類かの割り符によって構成されていたと言われています。
「三公闘戦剣」(さんこうとうせんのけん)は、この大刀2振のうちのひとつ。もう一方は、「日月護身剣」(じつげつごしんのけん)と呼ばれる刀でした。
皇位継承では、現在も残る「三種の神器」の継承の他に、この大刀契も継承されていたのです。
日本後紀
「日本後紀」(にほんこうき:天皇・上皇の命によって詩文を選び、加筆や整理を行なった書物)によると、桓武天皇(かんむてんのう)が崩御した806年(延暦25年)の皇位継承では、大刀契が存在していたとされています。
「葉黄記」(ようこうき:鎌倉時代の公卿・葉室定嗣が記した日記)では、1246年(寛元4年)に後深草天皇(ごふかくさてんのう)が譲位する際に「大刀契・鈴印・時簡など、同じく之を渡される」と記述され、大刀契があったことが窺えるのです。
しかし「匡遠記」(ただとおき:南北朝期の争乱に関することや、南北両朝の役所関係の記録などを記した史書)によると、1352年(観応3年)、後光厳天皇(ごこうごんてんのう)が即位したときには「大刀契・鈴印、之を渡されず、紛失せしめしか」と記述され、これ以降は行方が分からなくなっています。
南北朝時代は、京都(京都府)の北朝と吉野(奈良県)の南朝、2つの朝廷が分裂していた騒乱の時代。この中で紛失してしまったのではと推測されています。
天皇の象徴であるレガリアという重要な宝器でありながら、大刀契は失われてしまいました。現在の皇位継承で、かつての大刀契と同じように受け継がれているのは、八咫鏡(やたのかがみ)・八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)・草薙剣(くさなぎのつるぎ)からなる「三種の神器」です。
「古事記」に記された日本神話の「天孫降臨」(てんそんこうりん)の物語で、天皇家の祖であるアマテラスオオミカミ(天照大御神)が、地上世界を治めるために孫にあたるニニギノミコト(邇邇芸命)を遣わせますが、そのときに授けられた物とされています。
この時、アマテラスオオミカミはニニギノミコトに、「この鏡を、私の魂として、我が身を拝むように祀りなさい」と伝えました。そのため八咫鏡は、今も五十鈴宮(いすずのみや:伊勢神宮の内宮)に祀られています。
また、草薙剣は、アマテラスオオミカミの弟であるタケハヤスサノオノミコト(建速須佐之男命)が地上世界でヤマタノオロチを倒したときに見つけ、アマテラスオオミカミに献上した物。
景行天皇
その後、再び草薙剣が登場するのは、景行天皇(けいこうてんのう)の時代です。景行天皇には数多くの子どもがいましたが、皇位継承権がありながら気性の荒さが目立ったのがヤマトタケルノミコト(倭建命)でした。
天皇はヤマトタケルノミコトを遠ざけたいと、わざと難しい西征を命じますが、ヤマトタケルノミコトは西方を平定して都に帰ります。
すると、今度は「東方十二道(ひむかしのかたとおあまりふたみち)の荒ぶる神と、従わない者達を説得して平定しなさい」と命じ、東海地方への東征に向かわせました。
出発前にヤマトタケルノミコトは、伊勢の大御神宮(伊勢神宮)に参り、その地にいた叔母のヤマトヒメノミコト(大和比売命)に出発することを伝えると、ヤマトタケルノミコトは悲しみ嘆きました。
「なぜ、帰ってきて間もないうちに、十分な軍勢も与えられないまま、悪人の平定に遣わすのでしょうか。天皇は、本当は私が死んだ方がいいと思っているのではないでしょうか。」
それを聞いたヤマトヒメノミコトは、出発のときに草薙剣をヤマトタケルノミコトに授けたのでした。八咫鏡と違い、草薙剣がなぜ伊勢にあったのかは不明ですが、ヤマトタケルノミコトはその剣を持って東の地を平定します。
その帰り道に尾張国(愛知県西部)に戻ったとき、以前から結婚の約束をしていた美夜受比売(ミヤズヒメ)のもとに立ち寄り、結婚しました。しかしその後、草薙剣をミヤズヒメのもとに置いたまま、伊吹山(滋賀県と岐阜県の県境)に神を討ちに向かい、そこでヤマトタケルノミコトは死んでしまいます。
草薙剣
現在も受け継がれている三種の神器と違い、大刀契は失われているためか、その姿形を含めて詳細のほとんどが不明です。
しかし1221年(承久3年)に成立した有職故実(ゆうそくこじつ:古来の先例に基づいた、朝廷や公家・武家の行事や制度などのこと)の解説書「禁秘抄」(きんぴしょう)には「是、百済より渡さる所」と言う記述が見られ、鎌倉中期に成立した「塵袋」(ちりぶくろ:鎌倉時代中期の片仮名書きの分類百科事典)にも「百済国ヨリタテマツル所也」と書かれていることから、もともとは朝鮮半島の西南部にあった百済の宝物で、何らかのルートで日本にもたらされた物だと言う見方があります。
当時、百済と日本は友好的な関係にあり、仏教や大陸の文化も百済を通じて伝えられていたことを考えると、まったく不思議な話ではありません。
たくさんの謎に包まれた宝器・大刀契。三種の神器が空想と現実のはざまで描かれており、その実体の有無に議論があることを踏まえると、同じく天皇の権威を示す役割を果たしていた大刀契も、本当に実在したのかと考察してみるのも面白いかもしれませんね。