畳のある和室は、落ち着く空間です。畳や襖など、現在も使われている和室の原型は、この室町時代にできました。
「寝殿造」から「書院造」へ移り変わり、質実剛健な武士の家や、将軍の建てたきらびやかな「金閣寺」など、室町時代は現代にもつながる家の造りができ始めるのです。
そんな室町時代の武士の住まいや部屋の造り、代表的な建物について、ご紹介します。
正倉院
室町時代には、「書院造」(しょいんづくり)の建物が造られ始め、これまで主流だった「寝殿造」(しんでんづくり)から移行していく時期でした。今の和室の原型は、この頃にできています。部屋が間仕切りで仕切られ、襖や障子などが備え付けられ、小さい部屋から「畳敷き」になってきました。
畳は、日本の敷物。その歴史は、原型の記述が古事記にも書いてあるほどです。最も古い畳は、奈良県の「正倉院」に入った奈良時代の畳。「御床畳」(ごしょうのたたみ)と言います。
今の畳とは形が違い、板の上にマコモを編んだゴザを5~6枚重ねた状態で載せ、い草のコモで覆って縁を付けていました。寝るときに床に敷いて「敷布団」のように使っていたのです。
畳が今のような形になったのは、平安時代の頃。板敷きの床に座るときや、寝るときに敷くという使い方でした。今で言う座布団や敷布団のように使っていたのです。
使う人の身分によって畳の厚さやヘリの色、柄が違っていました。統一された規格などはなく、その時々で使う人の家に合うよう、要望に応えて作られていたのです。この時代の畳は、権力を持った一部の人しか、使うことができませんでした。
室町時代になって家が書院造になると、「部屋に畳を敷き詰める」という現在の和室のような使い方になります。これまで必要な場所にだけ畳を座布団のように置いていたのが、部屋の造りが変わり、小さな部屋に区切られるようになったのです。畳も敷いたり動かしたりするのではなく、一部屋すべてに置くようになりました。
しかしながら畳は高価で、ごく一部の人しか利用できません。今のように一般の人が畳を利用することができるようになったのは、年月がかなり経った江戸時代の中期。さらに地方の農村になると、畳が使えるようになるのは、明治時代になってからでした。
室町時代には、襖が各部屋に取り付けられるようになったのも大きなポイントです。
家の造りが「寝殿造」から書院造になる過程で生まれたのが、部屋の間仕切り。これまでは「簾」(すだれ)や「衝立」(ついたて)を使って部屋の仕切りにしていたところが、襖で部屋と部屋をきっちり分けるようになりました。
室町時代に襖が普及し始めたのは、住宅の使い方が変わってきたからだと言われています。武士や寺院などの権力者が客を招いて、そこで飾られている美術品や装飾品を眺めるなど、和歌や連歌、茶道などの芸術的活動をすることが流行しました。住宅の機能が、接客を中心に考えられるようになったのです。
襖としての機能は、引き戸が室町時代でほぼ完成しており、現代の襖と同じように使うことができました。そしてこの時代は、「大和絵」や「水墨画」が描かれるようになったのです。
これ以降は、安土桃山時代に豪華絢爛な「襖絵」が施されているなど、江戸時代には「町家」(まちや/町人の住宅)へと普及していきました。一般家庭に襖が普及するには、大正、昭和の時代まで待たなければなりません。
むしろ
寝るときに、ほっとさせてくれる布団。日本らしい寝具だと思われていますが、室町時代の寝具事情はどうだったのでしょう。結果から言うと、現代のような掛け布団は、まだこの時代にはありませんでした。
どのように寝ていたかと言うと、庶民の多くは家に「ゴザ」や「むしろ」(ワラやい草などで編んだ敷物)を敷いて寝ていたのです。掛ける物は、ワラだったり、着物だったり、なかには裸で寝ている人もいました。庶民まで寝具が行き渡るのは、まだずっと先の江戸時代になります。
身分の高い人は、畳に敷物を敷いて着物をかぶって寝ていました。室町時代も後期になると、着物に襟などが付いて綿の入った「掻巻」(かいまき)や「御衣」(おんぞ)などが、使われるようになります。
布団の原料になる木綿は、平安時代に一度日本に入ってきたのですが、栽培がうまくいきませんでした。その後、栽培が行なわれたのは室町時代末期の戦国時代です。
明応年間(1492~1501年)に栽培ができるようになり、そこから日本全国に広がりましたが、最初の頃は武具や火縄銃の火縄などに使われてしまい、なかなか寝具に木綿を使うということができませんでした。
金閣寺
「金閣寺」は、正式名称を「鹿苑寺」(ろくおんじ)と言い、鎌倉時代に「西園寺公経」(さいおんじきんつね)が別荘としていた建物を、1397年(応永4年)に室町幕府の3代将軍「足利義満」(あしかがよしみつ)が譲り受け、「山荘北山殿」を建てたのが始まりだと言われています。
この建物が建った当時は、「舎利殿」(しゃりでん)等と呼ばれていました。初めて金閣寺と呼ばれたのは、それからだいぶ時間が経った1484年(文明16年)になります。
足利義満は、力を入れて金閣寺、及び周辺の庭園を建築しました。極楽浄土をこの世に作ったとされ、この時代のきらびやかな文化を「山荘北山殿」の名前を取って「北山文化」と言います。
1950年(昭和25年)7月2日に一度火事により消失し、1955年(昭和30年)に再建されたのが、今建っている金閣寺。その後、1987年(昭和62年)秋に、「漆」と「金箔」が貼り直され、創建当初の姿を取り戻しました。そのときに使われた金箔は、約20kg。張替え前の10倍の量で、金箔の厚さは5倍になったのです。
屋根に飾られている「鳳凰」と後小松天皇筆「究竟頂」の額は、火事のときに金閣寺から外されて保存されていたので無事でした。建設当時の風景が分かるのは、鳳凰だけなのです。この火事の様子は、「三島由紀夫」や「水上勉」(みずかみつとむ)が小説にしています。
金閣寺は、もともとは足利義満が別邸を置いたところから始まり、1398年(応永5年)に北小路室町(現在の京都府京都市)へ移り住みました。足利義満は、この地を政治や外交の中心として栄えさせたのです。
明との貿易の際は、明からの勅使を「北山殿」で迎えています。また、「世阿弥・観阿弥親子」を庇護しつつ能を大成させるなど、文化や芸術にも力を入れていました。
そののち、1408年(応永15年)に足利義満が亡くなったあとも、正室の「日野靖子」(ひのやすこ)は、この地に住み続けました。足利義満の長男で将軍の座を継いだ「足利義持」(あしかがよしもち)が禅僧「夢想疎石」(むそうそせき)を呼び寄せて開祖とし、「禅寺」としたのです。このときに、足利義満の法号を取り鹿苑寺としました。
歴代の足利将軍は、金閣寺を守り維持していきました。たびたび参拝にも訪れていたのです。その後は、残念ながら「応仁・文明の乱」の際に西軍に陣を張られたため、金閣寺を除いて周りの多くの寺が消失してしまい、そこから荒廃してしまいました。
金閣寺は3層楼閣の舎利殿で、お寺の敷地の中心にある「鏡湖池」(きょうこち)の畔に建っています。光り輝くまばゆい金色は、漆の上に貼られた本物の金箔。屋根は、こけら葺(ぶ)きで、上には鳳凰が飾られているのです。
もともとは、第3層の舎利殿だけが「金閣」と言う名前だったのですが、この建物全体が有名になり、そのまま寺全体が、金閣寺と言われるようになりました。この建物は、層ごとに建築様式が違う造りで、それでも調和していると言う面白さがあります。
それぞれの階層の名前は、第1層は「法水院」(ほうすいいん)。寝殿造の「阿弥陀堂」です。第2層は「潮音洞」(ちょうおんどう)で、書院造の「観音堂」。第3層は「究竟頂」(くっきょうちょう)。禅宗様(唐様)の仏間です。1994年(平成6年)には、世界文化遺産にも登録されています。
室町時代は、強い政権が現れなかったので、全国的な交通整備は行なわれませんでした。鎌倉時代に整備された交通網(鎌倉街道)を、そのまま利用する形になります。
鎌倉時代と違うところは、各街道の交通の権利は、それぞれの地方に在住する荘園領主や守護が握っていたため、関所が乱立し通行が困難になっていたことです。
例えば、伊勢街道の桑名から日永間では、わずか4里(約15.7km)の間に60を超える数の関所が存在していたと言う記録もあります。
関所の乱立で、人々の移動が困難になっていることを問題視した室町幕府は、「新関禁止令」を何度も出したのです。しかし、まったく効果が上がらず、関所が減ることはありませんでした。関所の問題は、戦国時代の「織田信長」が、力を持って関所を撤廃するまで続くことになります。
古代から鎌倉時代の街道は、たとえ途中に山があっても、基本的に一直線で道を作っていました。一直線の道は、できてしまえば進むのが楽ですが、開通まで時間がかかります。室町時代以降、目的地と目的地を結ぶ道を作るときは、山を迂回してくねくねとした道を作っていたのです。
関所が増えたことにより、人々の移動が困難になり、荘園ごとに街道が寸断されていくなか、「馬借」(ばしゃく)・「車借」(しゃしゃく)と言う交通業者が現れて、年貢米や商品の輸送に活躍します。馬借は馬を使って、1頭あたり米俵を2俵積んでいました。車借は、荷車を動物に引かせる運送業者であり、主に牛に引かせることが多かったと言います。
その他、宋や元の銅銭が日本に流入することで、貨幣経済が各地に浸透してきました。荘園のなかで経済を回す封鎖経済圏が各地で発生し、地方の経済が活発になります。
商品経済の発展により、船を使った海上輸送が発展しました。瀬戸内海や日本海、琵琶湖の湖畔にも港が栄え、「定期船」や「廻船」(かいせん)が港を拠点に活躍しました。海上輸送は、大量の荷物を運ぶことができるようになりましたが、海賊が現れるなど新しい問題も出てきたのです。
「武家造」(ぶけづくり)とは、鎌倉時代から取り入れられている住宅の様式のひとつ。武士らしく実用性に重きを置いた建築で、簡素ながら現代まで残っている建物があるほど、とても耐久性のある建築です。
同じ時代に貴族が主に使っていた住宅様式のひとつである寝殿造と比べてみると、寝殿造の構成を引き継ぎながらも簡素化しています。貴族とは活動の内容が全然違う武士が、使いやすいような造りであるのが特徴です。
また武家造は、住宅様式の歴史的な流れの過渡期にあたり、書院造と寝殿造のいずれの特徴も半分ずつ持っています。室町時代以降になると、武家造は貴族や僧侶の住まいの影響を受けて、床の間や書院、違い棚や玄関が作られました。現在、武家造は寝殿造のひとつとして分類されており、その後、書院造へと変化していくのです。
藁葺の屋根
武家造の特徴のひとつに、建築資材に使われている材料があります。比較的手に入れやすい板を床に敷いて、「藁葺」で屋根を作るのです。造りが簡素で材料も手に入れやすいので修理もしやすく、簡単に建築することができます。
また、武士は常に外部からの侵入者に備えることが必要でした。住宅の周りに堀を作ったり、川が流れていたりとこちらも自然を利用して使うことで、防御して援軍が来るまでの時間稼ぎができます。最悪、敵の襲撃で燃えてしまっても、特別な材料ではないのですぐに再建できるのです。武士の質素で質実剛健なところは、住宅の材料ひとつとっても、そこに表れています。
「武家屋敷」は武家造と名前が似ていて、同じだと思われがちですが、実は全然意味が違います。武家屋敷とは、江戸時代の城下町に造られた武士が住んだ屋敷のこと。武士と町人とは、明確に住むところが分けられていたのです。武士は、町人のエリアに住むことはできず、その逆で町人も、武士のエリアに住むことはできませんでした(浪人は例外)。
武家屋敷は、武士の石高に対して、住む広さが変わります。100表以下の御家人でも200坪という広大な敷地が与えられていました。これは、武家屋敷には武士だけでなく、多くの家来や下働きの者を住まわせるためだったからです。
全国各地に武家屋敷の跡が残っており、観光することができます。常に戦闘が起こるかもしれない状況で、備えをしつつ建築された武家造と、主に住居として長く住むことを考えて造られた武家屋敷は、まったく違う物でした。