武家屋敷と日本の建築文化
襖障子へのこだわり
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襖障子へのこだわり

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部屋の仕切りとしての役割を持つ「襖障子」。実は武士にとって、権力の象徴としての役割も持っていたのはご存知でしたか?織田信長や徳川家康などの武将は、城の襖障子に豪華な装飾を施して、権勢を示していたのです。そんな権力の象徴であった襖障子の歴史や描かれていた障壁画についてご紹介していきます。

平安時代の襖障子

襖の語源は「臥す間」(ふすま)と言われています。平安時代の寝殿造において、寝所の間仕切りとして使われていたために、臥す間と言われるようになりました。のちに「襖障子」(ふすましょうじ)と言われる間仕切りから、引き戸タイプの「襖」へと変わっていきます。このころから中国から伝来した唐紙(とうし)が襖に使われるようになり、その唐紙に大和絵(やまとえ)による彩色が施されました。

書院造と襖

書院造

書院造

鎌倉時代の武家の台頭とともに、室町・戦国時代の流れの中で、屋敷の設えが寝殿造から書院造へと変わっていきます。

書院造が武家の屋敷となったのは、書院が対面所や接客の部屋として使用されたからです。寝殿造の寝所や居間で使われていた襖は、落ち着いた墨彩や淡彩を交えた程度の装飾がされていました。

書院造になると、客殿・対面所に用いられた書院では、襖が華やかな彩色画へと変わっていきます。

書院造で扱われた題材は、山水・人物・花鳥・走獣(そうじゅう)の4種類が主流。居住空間には水墨山水画、大広間などの対面用の座敷には花鳥画や淡彩人物画、玄関には走獣画が描かれていました。

織田信長と豊臣秀吉が好んだ金碧障壁画

書院造の豪勢さで、武家の権勢を誇るようになったのは安土桃山時代になってからです。戦国大名が城を築くときに、書院の襖を金地濃彩の華麗な物に仕立て上げました。安土桃山時代に華麗な襖の礎を築いたのは狩野永徳(かのうえいとく)の一門です。

焼失しているために全容が定かではありませんが、安土城の襖を描いたのも狩野永徳でした。「信長公記」には、ありとあらゆる画題の華麗な装飾を襖や壁に描いていて、金色に輝いていたと記録されています。織田信長上杉謙信に贈ったとされる「洛中洛外図屏風」(らくちゅうらくがいずびょうぶ)の制作を機に、織田信長の信頼を得て時の権力者のお抱え絵師になったのです。狩野永徳は、金碧(きんぺき)から水墨画に至るまでのありとあらゆる技法を駆使して、書院造の金碧障壁画を作り上げていきました。

洛中洛外図屏風で見て取れるように、金箔を多用した明るい輝きに彩られた作品が16世紀から目立つようになります。雲や霞を表す技法として使われ、権力者が好む様式として定着。むやみに金を多用するのではなく、雲形霞形をした金雲で空間を表現することによって、明るく輝きに満ちた美術作品として昇華させていったのです。

また、狩野永徳の筆さばきは荒々しくエネルギーに満ちており、観る者に強烈な印象を与えます。そのような大胆な手法こそが、戦国武将に好まれた物であり、大画構成にふさわしいスケールを持ち合わせていたのです。

その後、豊臣秀吉の聚楽第(じゅらくだい)も大坂城も狩野永徳が贅の限りを尽くして、彩色を施しました。しかしながら、織田信長、豊臣秀吉が権勢を誇るために建造した安土城も聚楽第も現存せず、戦国の世に焼失しています。

襖や室内の障壁画として描かれた美術品は、紙に描いているため劣化しやすいことと、居住者の好みによって上書きが可能なことから、今日まで残っている作品は多くありません。

二条城二の丸御殿に見る金碧障壁画

二条城二の丸御殿

二条城二の丸御殿

現存する書院造の襖で、障壁画が描かれた当時の徳川家の権勢を知ることができるのは二条城二の丸御殿。

徳川家康が御水尾天皇(ごみずのおてんのう)の行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)を仰ぐことになったときに改めて造営し直した城です。

「禁中並公家諸法度」(きんちゅうならびにくげしょはっと:皇家が政治に関与しないことを取り決める文書)を提示している徳川家としては、権力を皇家にアピールするためにこの上なく豪華な造りにしなければなりませんでした。

狩野一門の狩野探幽(かのうたんゆう)は襖に加え、壁を含めた一枚絵として金地極彩色の装飾を施しました。大広間の大床には巨大な松が描かれ、違棚(ちがいだな)背面、帳台構(ちょうだいがまえ)の襖から壁まで全体を金地極彩色で彩っています。

障壁画のランク

障壁画の題材としてのランクは、山水、人物、花鳥、走獣の順番になっており、江戸時代中期には、このランク付けが一般化していました。格差を明確にすることが、武家社会の秩序を保つ方法だったため、襖絵の題材もまたランク付けのためのツールだったのです。

襖絵が劣化して修復するときも、居住者が自分の趣向で意匠を変えるときも、このランク付けされた題材は、継承されていきました。このようなランク付けで描かれた金碧障壁画は、権力を誇示する装飾として、その後の書院造の基礎となっていったのです。

二条城障壁画・金碧画

二条城障壁画・金碧画

二条城二の丸御殿は、金雲を多用しての美術品という枠を超え、金箔を張った金地にすることで全体の輝きを増幅させ、偉大な権力者の証としています。

図柄は、松・鷹・鳳凰・虎などの迫力のある題材で、接客の間として圧倒されるような迫力を皇家や大名達に与えていました。

大広間を有するからこそ、大画構成が権力の象徴となりえたのです。

模様替えをしてはいけなかった江戸城本丸の障壁画

何度も消失、再建を繰り返した江戸城本丸御殿の障壁画の全容は分かっていません。豪華な金碧障壁画であったことは伝えられていますが、現存するのは下絵や記述による記録のみです。修繕する際に重要だったのは、「有形之通」ということでした。有形之通とは今までの通りにする、と言う意味です。本丸全体が何度焼け落ちて修復しても、障壁画の題材は変えてはいけなかったのです。

これは、題材によるランク付けが明確に規定されていたためで、対面所に関する場所は、伝統と秩序を守るために室内装飾の変更ができなかったのです。ただし、将軍の私室に関してはこの限りではありませんでした。

書院と欄間(らんま)彫刻

欄間彫刻は、採光・通気・装飾の実利を備えた奈良時代からみられる建築文化です。仏像彫刻の流れから派生しているため、寺社仏閣でよく見かけます。

書院造における接客用の書院は、格の高い人物が奥の座敷に座り、低い方が手前の座敷に座るという厳然とした格差が存在していたため、書院造には2間や3間続きの座敷が必要とされるようになったのです。そのため、部間の仕切りにある欄間が必要になり、凝った意匠の欄間彫刻が施されるようになりました。襖の上部にはめられていたことから、襖の意匠と同じであることが多く、権勢を誇る豪勢な襖絵に対応した欄間彫刻が施されていたのです。

木彫りの名工が意匠を凝らし、彩色も手掛けて派手になっていくのは、元禄文化(17世紀後半から18世紀初頭にかけての文化)以降となります。

現代の襖

武家が格式を誇る権威を示すために、書院の襖絵に贅を凝らしたのは、相手への畏怖感を与える意味がありました。現代では、襖絵が権力や財産の象徴ではありません。家を新築する際に和室を設けない住宅が増え、洋室とのバランスから純和風な絵柄が選ばれることは少なくなりました。

襖障子へのこだわり

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