室町時代

室町時代の食文化とは

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文化が発展して日本各地や海外との交流が広がっていくと「食」も変化を見せます。現代でもグローバル化に伴って、世界各国の料理が食べられるようになりました。
室町時代の多くは、戦乱の時期でしたが、食の文化が広がったときでもあります。中国以外の諸外国との交流も盛んになり、これまで日本になかった食べ物が入ってくるようになったのです。そんな室町時代の食文化について、ご紹介します。

姫飯が登場

姫飯とは?

「姫飯」(ひめいい)とは、お釜で炊いたやわらかいごはんのこと。この炊き方は、「湯取り法」と呼ばれています。お釜に水と米を入れて火にかけ、沸騰したら、しばらく炊いて、その後釜の中に残っている湯を捨てて、少し蒸し上げて仕上げるのです。

お米の炊き方は、今の炊き方に近づいてきていますが、現代の白米を炊いたごはんと違って、室町時代に食べられていたのは、ほとんどが「玄米」。もしくは、少しだけ精米された玄米に近い米でした。

厚みがある土器では、湯取り法でお米を炊こうとすると割れてしまったり、お米が土器にくっついてしまったりという問題があったのですが、室町時代に鉄や陶器の器が普及し始めると、「お米と一緒に水を入れて炊いていく」というやり方に変わっていったのです。

どんなときに食べられていたのか

姫飯は、室町時代からは武士の間や農村でも、普段の食事として食べられるようになりました。しかし、お米はまだ贅沢品だったため、生産量の上がってきた麦を入れて「麦飯」にして食べたり、魚や肉の保存食と一緒に食べる「なれずし」として食べたりすることもあったのです。

戦場では、1人の武士や足軽が、1日に朝夕の2回に分けて5合のお米を食べ、おかずとして携行している味噌を食べていました。

お米は腹持ちが良く、体に効率的なエネルギー源になります。米と味噌を食べることで、活動に必要な炭水化物とタンパク質を補給して、合戦を戦い抜く力を持続していました。1食で2.5合のお米を味噌で食べると、結構な量に感じられます。

強飯と姫飯の違い

「強飯」(こわいい)と姫飯の違いは、簡単に言うと調理方法の違いです。強飯が、お米を「甑」(こしき)と言う穀物を蒸す専用の調理用具で蒸して調理したのに対し、姫飯は、お米に水を加えて釜で炊いて調理した飯になります。

室町時代は、強飯も姫飯も食べられていましたが、湯取り法で作る姫飯の方が長持ちしたため、徐々に姫飯が庶民にも広がっていったのです。

強飯は、蒸して作る製法のため、水分が少なく固かったと言われており、夏は水をかけたり、冬は「茶漬け」、または「湯漬け」のようにしたりして食べられていました。

室町時代から歴史が下るにつれて、姫飯が一般で食べられるようになったため、強飯は儀式や祭礼のときに食べられる飯として、その形を変えていったのです。今では、もち米が入った赤飯やおこわとして特別なときに食べられています。

食が充実した豊かな時代だった

みかんが商品化される

みかん

みかん

甘い果物が手に入りにくかった室町時代に商品化されて人気だったのが「みかん」。もともとみかんは日本にありましたが、品種改良により甘みが増して、新しい品種の栽培が広がっていきました。室町時代には、みかんが栽培されている様子が短歌に詠まれたり、日記に書かれたりしています。

特に、みかんの栽培が盛んで人気だったのが紀州。現在の和歌山県です。室町時代の資料には、甘い果物として「紀州のみかん」をお土産にしていたという記述もあります。当時のみかんは、現在よりも種が多かったのですが、それでもその甘さから紀州のみかんは全国に広がっていきました。

接ぎ木をしながら、栽培を増やしていった紀州のみかん。紀州の「有田」と言うところは、特においしいみかんの産地として評判でした。「有田のみかん」は、皮は薄く光沢があり、果肉は甘くて、酸味が少なく、贅沢なおいしさだったので全国的に人気を誇っていたのです。

ヨーロッパや中国の食べ物も入ってきた

室町時代から南蛮貿易によって、ヨーロッパ諸国から新しい食材や料理が日本に多くもたらされました。代表的な食べ物としては、スペインやポルトガルから伝わってきた「カステラ」や「ボウロ」などの南蛮菓子。卵や砂糖をふんだんに使ったお菓子は、日本人に驚きを与えました。

玄関口となった長崎では、カステラが有名です。のちに、江戸時代に長崎街道を通って、海外から輸入した砂糖を、京都大阪・江戸まで運んでいきました。その道筋が「シュガーロード」と言われているのですが、その街道の地域には、砂糖をたっぷり使った洋菓子の影響を受けたお菓子が今も残っています。

また、ヨーロッパからは新しい野菜も日本に伝わりました。カボチャやさつまいも、じゃがいもやとうもろこし、唐辛子などはこの時期に来た野菜です。

カボチャは、当時カンボジアの産物として伝わったことから「カボチャ瓜」と呼ばれ、のちに瓜が取れてカボチャと呼ばれるようになりました。漢字では「南瓜」と書くため、そのまま「南の瓜」で、当時南蛮渡来してきた経緯が分かります。

食用として、一般に広まるのに時間のかかる野菜もいくつかありました。じゃがいもは、家畜の餌として使用。唐辛子も最初は毒の扱いだったり、履き物に入れて防寒に使われたりしていたのです。食材として利用されるのは、かなりあとの時代のことになります。

鎌倉時代に中国より伝わったと言われる「そば」、「うどん」も、小麦やそばの収穫量が増えるにしたがって各地で作られるようになりました。

「そば、うどん発祥の地」という碑が建っているのは、福岡県の博多にある「承天寺」。高僧の「聖一国師」(しょういちこくし)が、中国より製麺技術を持ち帰ったのが始まりだと言われています。また、饅頭も聖一国師が持ち帰ってきたのです。

茶の湯が発展して甘い物も増えた

千利休

千利休

お茶を飲むところである「喫茶」という文化は、当時中国に留学して仏教を学んでいた僧侶が日本に持ち帰り、定着してきました。室町時代になると、作法を重んじる「茶の湯」が貴族や上流武士、豪商の中で流行していきます。

茶の湯は、堺の町衆の1人「千利休」(せんのりきゅう)によって、茶室や茶道具、作法まで一体とする新たな世界が作られました。「亭主」と呼ばれる主催者が、客に茶をふるまう「茶会」が各地で開かれるようになり、お茶に合う物として「茶菓子」が生まれ、増えていったのです。

室町時代のお茶の席では、「点心」と呼ばれる軽食があります。汁物として「羹」(あつもの)というメニューがあったのですが、その中に「羊羹」がありました。当時の日本は、肉食の習慣がなかったため、羊の代わりに小豆や麦の粉で似せたお菓子を作ったのです。

それが羊羹の原型で、最初は蒸した羊羹として出されていました。現在のような形の羊羹になるのは、江戸時代に寒天が発見されてからになります。

他にも、茶の湯の菓子としては「打栗」、「煎餅」、「栗の粉餅」などがあり、それらが和菓子の発展につながっていきました。ちなみに、打栗は栗を蒸して砂糖を加えて薄く叩いたお菓子、煎餅は小麦粉に砂糖を入れて練り焼いたお菓子、栗の粉餅は栗きんとんをそぼろ状にして、もち餅にまぶしたお菓子です。

上杉謙信の兵糧食は笹団子

笹団子とは

笹団子

笹団子

新潟県を代表する郷土のお菓子である「笹団子」。もともとは、端午の節句などのお祭りに備えられていました。

いつから食べられていたかと言うことは色々な説があり、はっきりしていません。「米や笹などの植物が身近にあった、農民が作った」とか、「武士が戦争のときに携帯し、団子を武士が、笹の葉を馬が食べた」とか、「中国から伝わった、ちまきがもとになった」などといった説です。

笹団子の作り方は、「うるち米」と「もち米」をすり潰して粉にしてから、よく混ぜて、それに蒸したよもぎを加えて餅のベースの完成です。ここに、白玉粉と砂糖を加えることもあります。かつては、よもぎの代わりに山ごぼうの葉っぱを入れていたこともあるのです。

そうしてできた餅であんをくるんで、数枚の笹の葉で包んだあと、イグサやスゲなどでしっかりと結んで俵型にして蒸し上げれば完成。あんには、室町時代の頃は梅やかつお節、味噌やきんぴらなどの塩味の具が入っており、戦争のときの携行食や農作業中の間食としても、食べられていました。

お米の生産が、全生産物の8割を超えていた新潟。お金に換金したり、年貢として拠出する「上米」の消費を抑えたりして、いかに自分の持っている「くず米」をおいしく食べられるようにするかと、知恵を絞ってできたのが笹団子だと言えます。

明治時代の中頃に砂糖が普及するようになり、甘いあんが入れられるようになりました。地域によって、「こしあん」か「つぶあん」かの違いはあれど、大きく作り方は変わりません。笹の葉が殺菌、防腐作用をもたらして長持ちするだけでなく、さわやかな香りを出すことで食欲を増す効果があるのです。

上杉謙信の家臣「宇佐美定満」が考案した

上杉謙信

上杉謙信

笹団子は、武士が合戦に行くときに携行食にしていたと言う説があり、「戦国武将の上杉謙信が、笹団子を保存食として合戦に持っていった」と言う話が新潟には伝わっています。

「北越軍記」(北越軍談とも呼ばれる江戸時代の軍学書)によると、上杉謙信の部下である「宇佐美定満」が、笹団子を考え出して上杉謙信に献上したと記されているのです。笹団子は、笹の効果で日持ちがよく、おにぎりのように中に何でも入れることができるので、食事の時間が決まっていない合戦のときには、重宝されたことでしょう。

また、柿崎(現在の新潟県上越市)でお城に仕えていた菓子職人が笹団子を考案して、上杉謙信に献上したと言うことが「北越風土記」(江戸時代中期の書物)に記されていました。他にも、上杉謙信が出陣しようとしたときに「もち米」がうまく集まらず、「うるち米」と混ぜて笹団子を作り、戦場へ持っていったと言う説もあります。

確実な資料は見つかっていませんが、上杉謙信が笹団子を食べながらライバルである「武田信玄」や「織田信長」、「北条氏康」(ほうじょううじやす)などの名だたる武将と対峙し、さらに「川中島の戦い」を行なっていたと考えるとロマンがあります。

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食事の方法や様式は?

一汁二菜だった?

一汁三菜

一汁三菜

現代では、ごはんをおかずと共に食べるのは当たり前です。これまで大量のお米と少量のおかず(主菜)を食べていた武士や農民ですが、室町時代から内容は質素ですが徐々に「一汁二菜」、「一汁三菜」と言う食事形態が増えてきました。

「一汁二菜」や「一汁三菜」は、現代まで残る日本食の家庭料理における基本のスタイル。主食のごはん、汁物がひとつ(主に味噌汁)、そしておかず(主菜+副菜)です。副菜の数が、「一汁二菜」か「一汁三菜」かの違いになっていきます。ちなみに、「香の物」(お漬物)は「一汁二菜」、「一汁三菜」には入りません。

室町時代では、汁物は味噌や糠味噌、塩で味付けされた汁を主に食べていました。現代と違って、食事が終わるときに、ごはんにかけて一緒に食べます。ごはんに水気を足して食べやすくしたり、乾燥して食器にこびりつかないようにしたりする生活の知恵です。

おかずはそれぞれの地方によって違いましたが、主に野菜や海藻、梅干しや漬物、蒲鉾や納豆、鳥や魚のお肉も食べていました。おかずが増えたと言っても、やはり主な栄養源はお米。それも玄米や簡単に精米しただけのお米で、1回の食事で、今のお茶碗5杯分を食べていたのです。

食品の種類が増えた豊かな時代

室町時代は、今につながる多くの食品が出てきた時代。背景には、農業技術の発展でお米や小麦などの作物の収穫量が増え、人々に余裕が出てきたこと、市などで交易が活発になり食料が各地に流通するようになったからと言われています。

現在では、使わない人はいない調味料、醤油や味噌は、室町時代に現代のような形になって使用されるようになりました。醤油は、もともと古代からある調味料「醤」(ひしお)を原型として、醤が「溜」(たまり)という調味料になり、そこから醤油になっていったと言われています。

醤油と言う名称が初めて文献に登場するのも、安土桃山時代の日常用語辞典「易林本節用集」です。室町時代の末頃から、関西を中心に醤油の製造量がどんどん増えて、全国へ広がっていきました。

味噌は、生産量が増えた大豆を使って、農民が自分達でそれぞれ味噌を作るようになり、それが保存食として徐々に広まっていったのです。味噌は、調味料としてだけではなく、特に戦場での貴重なタンパク源として携行しました。

戦場で持ち歩くための味噌で「味噌玉」があります。焼いた味噌を1食分ずつ丸めて、そのままかじってもよし、お湯を注げば味噌汁になるなど、今で言うインスタント味噌汁です。それぞれ好みで野菜や雑穀、梅干しやワカメを入れて栄養を増やしていました。

そして、「芋茎縄」(いもがらなわ)と言う、サトイモの茎(ズイキ)を味噌汁で煮込み、味を染み込ませたあとに乾燥させて、縄のようにした食べ物があります。芋茎縄は、そのまま縄としても使え、非常時にはかじって食べたり、煮込んで味噌汁にしたりできる、とても便利な道具でした。

地方ごとに特色のある味噌が出てきたのもこの時期からで、武田信玄は「信州の味噌」、豊臣秀吉徳川家康は「豆味噌」、伊達政宗は「仙台味噌」と言うように、味噌作りを行なって役立てていたのです。

室町時代の食文化とは

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