古代神話の地とされる宮崎県高原町には、国の重要無形民俗文化財に指定される2つの神楽「祓川神楽」(はらいがわかぐら)と「狭野神楽」(さのかぐら)があります。
毎年12月の第1土曜日に霧島東神社の氏子によって代々行なわれる「祓川神楽」と、毎年12月の第2土曜日に狭野地区の行事として行なわれる「狭野神楽」。「祓川神楽」は「祓川神楽保存会」に、「狭野神楽」は「狭野神楽保存会」によってそれぞれ伝統が守られています。
「祓川神楽」と「狭野神楽」の特徴は、大人も子供も刀剣(日本刀)を使用する剣舞です。そんな2つの神楽「祓川神楽」と「狭野神楽」について、また高原町にまつわる神話についてもご紹介していきます。
祓川神楽
古代神話の地・宮崎県高原(たかはる)町では、毎年12月になると「祓川神楽」(はらいがわかぐら)が行なわれます。
この神楽は、霧島東神社の奉納行事として伝えられており、午後7時頃から始まって、翌朝7時頃まで夜を徹して舞が繰り広げられるのが特徴です。地元では「神舞」(かんめ)または「神事」(かんごっ)と呼ばれ親しまれています。
以前は旧暦の11月16日の夕方から翌朝にかけて、神楽宿とした民家の庭先に御講屋(みこうや)を設けて披露されていましたが、今では毎年12月第2土曜日から日曜日にかけて祓川神楽殿で行なわれます。
祓川神楽は、同じく高原町で行なわれる「狭野神楽」(さのかぐら)と並んで「高原の神舞」(たかはるのかんめ)として400年以上も前から続いている夜神楽です。
その歴史の長さや今も地域に親しまれることから、国指定重要無形民俗文化財に選ばれています。
霧島東神社
午後7時頃、「浜下り」という降神の儀から始まり、「宮入」へ。舞が始まるのは「門境」(かどざかい)からで、宮崎県北部に伝わる「宿借り神事」に通じるこの舞は2人舞です。その後は子どもの舞や女面を被ったひとり舞など様々な舞が次々と繰り出されます。真剣を使用した「剱」(つるぎ)では、途中から子どもが加わる「中入」(なかいり)を含めて、1時間以上にわたって舞が披露され、優雅な舞の中にも緊張感が走ります。
また、天神地祇(てんじんちぎ:天神は高天原に生成または誕生した神。地祇は国土の神。)12神になぞらえた12人が真剣を持って勇壮に舞う「十二人剱」(じゅうににんつるぎ)も圧巻。1時間ほど続く演目ですが、華麗な剣舞に時間を忘れてしまうほどです。
こうして数多くの舞が続いた早朝、お供えの餅をお盆にのせて片手で持って、餅を落としながら舞う「花舞」で終焉を迎えます。
花舞では、観客が御講屋内に入ることが許され、落ちた餅を拾うために大勢がなだれ込む光景が見られます。
狭野神社
高原の神舞のもうひとつの神楽である「狭野神楽」は、狭野神社の年中行事のひとつで、祓川神楽と同様、400年以上の歴史があると考えられています。神社での神事のあと、第2鳥居近くの広場が舞庭(まいど)となり、真剣を用いた勇壮な剣舞や面を着用したユーモラスな舞などが、翌朝の日の出まで行なわれます。
江戸時代初期には、神楽を実施できるほどの社家(しゃけ:神社を奉祀する世襲の神職の家柄)組織が成立していたと伝えられ、文政年間(1818~1831年)に最盛期を迎えます。残されている当時の番付表(プログラム)を見ると、この頃は39番もの膨大な舞があり、大がかりな神楽であったことがうかがえます。
狭野神楽は江戸時代に多くの寄進物を受けていたことから、面、装束、幟(のぼり)など今でもその多くが残されており、貴重な史料になっています。
狭野神楽
子供が真剣の刃を持って舞う「踏剱」(ふみつるぎ)や「長刀」(なぎなた)などの剣舞もあり、祓川神楽と共通するものも多くありますが、御幣(ごへい:神祭用具のひとつ)を持って舞う「小房」(こふさ)や酒を飲みながら舞う「御酔舞」(ごしゅまい)、箕(み)と竪杵(たてぎね)を使用した「箕剱」(みつるぎ)など、独特の舞もあります。
狭野神楽は、かつては狭野神社の社家の間で行なわれていましたが、現在は狭野地区の行事となっており、祓川神楽より1週間早い毎年12月第1土曜日に開かれます。宮崎県では高原の神舞の他にも神楽が盛んで、各地区に様々な神楽が伝承され、その地に根づいた独特の文化を残しています。
そのなかで「高千穂神楽」、「銀鏡神楽」(しろみかぐら)、「椎葉神楽」(しいばかぐら)は、高原の神舞と同様に国の重要無形民俗文化財に指定されており、宮崎県は古くからの文化が今も息づく場所と言えるでしょう。
天逆鉾
祓川神楽が行なわれる宮崎県高原町は、鹿児島県と隣接する高千穂峰の麓の町で、「天孫降臨」の神話伝説が伝えられることで知られています。
霧島連峰の第2の峰である高千穂峰は、山頂には青銅製の天逆鉾(あまのさかほこ)が立っており、山岳信仰の舞台として多くの人から崇拝されました。
高千穂峰の周囲には、平安時代に霧島山などで修験道の修業を行なった天台宗の僧、性空(しょうくう)によって整備された「霧島六社権現」(きりしまろくしゃごんげん)という6つの社寺がありました。
それらは霧島岑(きりしまみね)神社、霧島東神社、狭野神社、霧島神宮、夷守(ひなもり)神社、東霧島神社のことです。
このうち2つの神社が高原町にあり、2神社で伝承されている神楽を総称して「高原の神舞」と呼んでいます。
霧島東神社の社宝とされる天逆鉾の由来について、神話をもとにした諸説があるようです。ひとつは、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)が日本列島をつくったときに使ったとされる「国産み」の説。
もうひとつは、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が国を平定するために使って、鉾を二度と振るわれないように願って突き刺したという天孫降臨の説です。
天逆鉾については他にもエピソードがあり、幕末時代に、坂本龍馬が妻のお龍と高千穂峰を訪れた日本初の新婚旅行では、龍馬がこの天逆鉾を抜いたと書簡に残しています。
天逆鉾で語られる国産みや天孫降臨は日本の神話としてよく知られていますが、高千穂峰周辺には日本の神話にまつわる地が数多く残され、神話の聖地と言われています。
これらの神話は「日本書紀」、「古事記」に記されており、日本の創世紀を綴った物語として今に伝承されています。
天逆鉾伝説となる国産みは、天地が開け始めた頃に、天上界から誕生した男神・伊邪那岐命と女神・伊邪那美命が、混沌とした大地に矛を刺してかき混ぜ、引き上げた矛からしたたり落ちて固まったのが日本列島であるという神話です。
また天孫降臨は、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、孫の瓊瓊杵尊に三種の神器を授けて、葦原中つ国(あしはらのなかつくに)を高天原(たかまのはら)のようにすばらしい国にするように命じたという神話で、国を平定した瓊瓊杵尊が矛を地に突き刺したのが天逆鉾と言われています。
そして、有名な神話である「天の岩戸」があります。弟の素戔嗚命(スサノオノミコト)の悪行に困り果てた天照大御神が、岩屋戸に引きこもったため、この世が闇の世界になってしまい、何とか天照大御神を岩屋戸から出すために他の神々が歌い踊って大騒ぎをするという話です。
こうした数々の神話とともに、それらのゆかりの地も高千穂峰周辺に点在しています。神話の世界は、壮大な歴史ロマンを見せてくれるため、今でも多くの人を魅了しており、ゆかりの地を訪れる人も絶えません。祓川神楽で演じられる舞にも、歴史や神話の世界に引き入れてくれる魅力があります。