-
江戸時代
とさみつさだ たけだにじゅうよんしょうがふく 土佐光貞 武田二十四将画幅 /ホームメイト

本書画に描かれている「武田二十四将」は、戦国時代の武将「武田信玄」に仕えた配下を指します。
また、武田二十四将の呼び名は、戦国期に実在した職名ではなく、後世の講談や軍記などで評価の高かった人物達の呼称です。主に上段中央に位置するのが武田信玄で、本書画もそのように描かれています。
江戸時代では、戦国大名やその家臣団を描いた画がよく制作されましたが、廃絶大名家でありながら、多数の作品が残る大名家は武田家のみ。
武田家遺臣達が徳川家に庇護されていたことと、江戸時代に書かれた武田家の軍記物「甲陽軍鑑」(こうようぐんかん)が普及したことが、功を奏したと考えられます。
本書画を描いた「土佐光貞」(とさみつさだ)は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した「土佐派」の絵師。土佐派は、室町時代から続く朝廷の御用絵師で、日本的で繊細な画風を得意とする流派です。
土佐光貞は、土佐派の別家に属し、本家の兄「土佐光淳」(とさみつあつ)と朝廷の「絵所預」(えどころあずかり:朝廷の屏風や障子を制作する役職)に任命。1787年(天明7年)には、天皇の即位後はじめて行なう儀式「大嘗祭」(だいじょうさい)に用いられる「大嘗会悠紀主基屏風」(だいじょうえゆきすきびょうぶ)を描き、目覚ましい活躍を見せます。
兄・土佐光淳が亡くなると本家の中心として朝廷からの依頼、内裏造営(だいりぞうえい)を遂行し、さらに土佐光貞自身は、清涼殿(せいりょうでん)の障壁画などを描きました。
1802年(享和2年)、土佐光貞は朝廷の官位・従四位上(じゅしいじょう)に昇叙し、以降も優れた才能で別家を繁栄に導きました。
