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安土桃山時代
もがみよしあきしょうそく(だてまさむねあて) 最上義光 消息(伊達政宗宛) /ホームメイト

本消息は、出羽山形藩(現在の山形県)の初代藩主「最上義光」(もがみよしあき)が、甥である仙台藩(現在の宮城県仙台市)の初代藩主「伊達政宗」に宛てた直筆の手紙です。1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」から1ヵ月ほどのちの、東軍の勝利が全国に知れ渡った頃にしたためられました。
「徳川家康」は、会津(現在の福島県)の大名「上杉景勝」(うえすぎかげかつ)を討つべく進軍の最中、大坂(現在の大阪府)で「石田三成」(いしだみつなり)が挙兵したとの報を受け、引き返します。
このとき、徳川家康は最上義光や伊達政宗ら東軍諸侯に、上杉景勝を牽制するよう命じましたが、東軍諸侯は命令に反して上杉軍との和睦を図ります。しかしながら最上義光は和睦を成立させることができず孤立した状態で上杉軍と対峙することになり、2,000丁の鉄砲を用いて上杉軍の「直江兼続」(なおえかねつぐ)と交戦し、これを撃退します。
しかし、一度は上杉軍との和睦を図ろうとしたことが徳川家康には知られているのではないかと不安になった最上義光は、徳川家康の心中を探ろうと、徳川家康と親族関係になっていた甥の伊達政宗へ本消息を送ったのでした。
本消息では、上杉軍と東軍諸侯の双方が、申し合わせて兵を出したように見せかけているのは、ばからしいことだと人々が語っていると言及。併せて、近隣の諸国を治める武将らの動向や、伊達政宗自身の考えについて尋ねています。
その後、最上義光は上杉軍を撃退した功績により57万石を拝領。伊達政宗は、会津(現在の福島県)の上杉軍を攻めましたが敗退したため、「豊臣秀吉」に没収された会津の領地奪還は叶いませんでした。
