「碓井姫」(うすいひめ)は「於久」(おく/おひさ)、「登与」(とよ)とも呼ばれ、「徳川家康」の叔母にあたり、また徳川家康の功臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)の妻になった女性です。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では「猫背椿」(ねこぜつばき)さんが演じ、夫の酒井忠次をよく支えた、徳川家康家臣団のマネージャーのような存在として描かれます。碓井姫(於久/登与)の夫・酒井忠次や、碓井姫(於久/登与)が生んだ子らの活躍を通して、碓井姫(於久/登与)の生涯と人間像を見てみましょう。
碓井姫(於久/登与)
碓井姫(於久/登与)は、三河国(現在の愛知県東部)の武将「松平清康」(まつだいらきよやす)の娘として1529年(享禄2年)に生まれました。
碓井姫(於久/登与)の父・松平清康は、松平家の本家や分家が分割統治していた西三河を武力で統一し、東三河にも勢力を拡大して、三河国を支配した実力者です。
また、碓井姫(於久/登与)の母・於富の方(おとみのかた:法名は華陽院[けおういん])と松平清康は再婚で、最初に嫁いだ「水野忠政」(みずのただまさ)との間に、徳川家康の母「於大の方」(おだいのかた)をもうけています。
つまり、碓井姫(於久/登与)は、於大の方の異父妹であり、徳川家康の叔母にあたる女性でした。
碓井姫(於久/登与)は、2度の結婚で3人の男子を産んでおり、この子らはいずれも徳川家康に忠臣として仕えました。碓井姫(於久/登与)の息子らの活躍を紹介しましょう。
松平康忠は、碓井姫(於久/登与)が最初の夫・松平政忠との間に産んだ子です。幼少時に父の松平政忠が戦死し、母の碓井姫(於久/登与)は再婚したため、祖父の松平親広(まつだいらちかひろ)に育てられました。
成長した松平康忠は、1575年(天正3年)の「長篠の戦い」で、敵将「武田勝頼」(たけだかつより)への奇襲攻撃に参戦して大打撃を与える手柄を立てています。
その後、松平康忠は、徳川家康の長男「松平信康」(まつだいらのぶやす)に家老として仕えますが、松平信康は織田信長への謀反を疑われ、21歳で切腹させられました。
この悲痛な出来事があっても、徳川家康はのちに松平康忠を自身の近臣にしており、信頼は厚かったと考えられます。松平康忠は、戦乱の時代に73年の天寿をまっとうし、徳川十六神将に名を連ねているのです。
吉田城(愛知県豊橋市)
碓井姫の実名は「於久」だったと考えられていますが、史料には複数の呼び名で登場します。
そのひとつ「吉田殿」は、夫の酒井忠次が、戦功により三河国の「吉田城」(愛知県豊橋市)の城主になったことが由来です。
もうひとつの呼び名「碓井姫」は、息子の酒井家次が城主になった下総国「臼井城」(現在の千葉県佐倉市にあったとされる城)で暮らしたからだと考えられています。
また、碓井姫(於久/登与)は1612年(慶長17年)に亡くなると、「光樹院」(こうじゅいん)という美しい法名を贈られました。
碓井姫(於久/登与)についての詳しい史料は少ないものの、こうした呼び名の変遷をたどると、夫や息子の出世を支え、城主となった彼らの側で暮らした日々がうかがえるのです。