安土桃山時代の重要用語

碓井姫(於久/登与) 
/ホームメイト

「碓井姫」(うすいひめ)は「於久」(おく/おひさ)、「登与」(とよ)とも呼ばれ、「徳川家康」の叔母にあたり、また徳川家康の功臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)の妻になった女性です。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では「猫背椿」(ねこぜつばき)さんが演じ、夫の酒井忠次をよく支えた、徳川家康家臣団のマネージャーのような存在として描かれます。碓井姫(於久/登与)の夫・酒井忠次や、碓井姫(於久/登与)が生んだ子らの活躍を通して、碓井姫(於久/登与)の生涯と人間像を見てみましょう。

大河ドラマ歴史年表(歴代別/時代別)
これまで放送された大河ドラマ、及び今後放送予定の大河ドラマを一覧で見ることができます。
大河ドラマ どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

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「碓井姫」(うすいひめ)は「於久」(おく/おひさ)、「登与」(とよ)とも呼ばれ、「徳川家康」の叔母にあたり、また徳川家康の功臣「酒井忠次」(さかいただつぐ)の妻になった女性です。2023年の大河ドラマ「どうする家康」では「猫背椿」(ねこぜつばき)さんが演じ、夫の酒井忠次をよく支えた、徳川家康家臣団のマネージャーのような存在として描かれます。碓井姫(於久/登与)の夫・酒井忠次や、碓井姫(於久/登与)が生んだ子らの活躍を通して、碓井姫(於久/登与)の生涯と人間像を見てみましょう。

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大河ドラマ どうする家康
どうする家康は徳川家康の人生を描いたNHK大河ドラマ。キャストや登場する歴史人物、合戦などをご紹介します。

碓井姫(於久/登与)の生涯

徳川家康の母・於大の方の異父妹

碓井姫(於久/登与)

碓井姫(於久/登与)

碓井姫(於久/登与)は、三河国(現在の愛知県東部)の武将「松平清康」(まつだいらきよやす)の娘として1529年(享禄2年)に生まれました。

碓井姫(於久/登与)の父・松平清康は、松平家の本家や分家が分割統治していた西三河を武力で統一し、東三河にも勢力を拡大して、三河国を支配した実力者です。

また、碓井姫(於久/登与)の母・於富の方(おとみのかた:法名は華陽院[けおういん])と松平清康は再婚で、最初に嫁いだ「水野忠政」(みずのただまさ)との間に、徳川家康の母「於大の方」(おだいのかた)をもうけています。

つまり、碓井姫(於久/登与)は、於大の方の異父妹であり、徳川家康の叔母にあたる女性でした。

徳川家康の功臣・酒井忠次と再婚

碓井姫(於久/登与)は、はじめ三河国の武将「松平政忠」(まつだいらまさただ)と結婚し、息子の「松平康忠」(まつだいらやすただ)を産みます。しかし、夫の松平政忠を1560年(永禄3年)の「桶狭間の戦い」で亡くし、酒井忠次と再婚しました。

酒井忠次は徳川家康に生涯を捧げた功臣で、戦場で数多くの武功を立てたことから「徳川四天王」や「徳川十六神将」の筆頭に挙げられる人物です。

碓井姫(於久/登与)と酒井忠次の間には、ふたりの男子が生まれ、長男の「酒井家次」(さかいいえつぐ)は酒井家の家督を継ぎ、次男の「本多康俊」(ほんだやすとし)は、徳川家康の家臣「本多忠次」(ほんだただつぐ)の養子になりました。

碓井姫(於久/登与)の息子3人の活躍

碓井姫(於久/登与)は、2度の結婚で3人の男子を産んでおり、この子らはいずれも徳川家康に忠臣として仕えました。碓井姫(於久/登与)の息子らの活躍を紹介しましょう。

松平康忠:徳川十六神将のひとり

松平康忠は、碓井姫(於久/登与)が最初の夫・松平政忠との間に産んだ子です。幼少時に父の松平政忠が戦死し、母の碓井姫(於久/登与)は再婚したため、祖父の松平親広(まつだいらちかひろ)に育てられました。

成長した松平康忠は、1575年(天正3年)の「長篠の戦い」で、敵将「武田勝頼」(たけだかつより)への奇襲攻撃に参戦して大打撃を与える手柄を立てています。

その後、松平康忠は、徳川家康の長男「松平信康」(まつだいらのぶやす)に家老として仕えますが、松平信康は織田信長への謀反を疑われ、21歳で切腹させられました。

この悲痛な出来事があっても、徳川家康はのちに松平康忠を自身の近臣にしており、信頼は厚かったと考えられます。松平康忠は、戦乱の時代に73年の天寿をまっとうし、徳川十六神将に名を連ねているのです。

酒井家次:酒井家の長男として家督を継ぐ

酒井家次は、碓井姫(於久/登与)が再婚した酒井忠次との間の長男で、幼少時から徳川家康に仕えました。1590年(天正18年)に「豊臣秀吉」が東国の有力大名・北条氏を滅ぼした「小田原の役」(別称:小田原征伐)では、徳川軍の先鋒隊として果敢に攻め込み、徳川家康から下総国臼井藩(しもうさのくにうすいはん:現在の千葉県佐倉市臼井)の37,000石の所領を与えられています。

その後、酒井家次は上野国高崎藩(こうずけのくにたかさきはん:現在の群馬県高崎市)に移って50,000石を領有し、さらに越後国高田藩(えちごのくにたかだはん:現在の新潟県上越市)に転封して100,000石の藩主にまで出世しました。

本多康俊:酒井家の次男から本多忠次の養子に

本多康俊は、碓井姫(於久/登与)と酒井忠次の次男で、少年時代には徳川家康から織田信長への人質として差し出されています。

その後、徳川家康の家臣「本多忠次」(ほんだただつぐ)の養子になり、「関ヶ原の戦い」での戦功により三河西尾(現在の愛知県西尾市)に20,000石の所領を与えられました。

続く「大坂冬の陣」、「大坂夏の陣」でも、めざましい活躍を見せたことで、近江国膳所(おうみのくにぜぜ:現在の滋賀県大津市)に栄転して30,000石を領有しています。

複数の呼び名が語る、碓井姫(於久/登与)の生涯

吉田城(愛知県豊橋市)

吉田城(愛知県豊橋市)

碓井姫の実名は「於久」だったと考えられていますが、史料には複数の呼び名で登場します。

そのひとつ「吉田殿」は、夫の酒井忠次が、戦功により三河国の「吉田城」(愛知県豊橋市)の城主になったことが由来です。

もうひとつの呼び名「碓井姫」は、息子の酒井家次が城主になった下総国「臼井城」(現在の千葉県佐倉市にあったとされる城)で暮らしたからだと考えられています。

また、碓井姫(於久/登与)は1612年(慶長17年)に亡くなると、「光樹院」(こうじゅいん)という美しい法名を贈られました。

碓井姫(於久/登与)についての詳しい史料は少ないものの、こうした呼び名の変遷をたどると、夫や息子の出世を支え、城主となった彼らの側で暮らした日々がうかがえるのです。

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