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大河ドラマ「どうする家康」と史実の相違点
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大河ドラマ「どうする家康」と史実の相違点 大河ドラマ「どうする家康」と史実の相違点
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2023年1月に放送が始まったNHK大河ドラマ「どうする家康」は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」が、何度も窮地に立たされ、そのたびに「どうする?」と決断を迫られながら、天下人に昇りつめる生涯を描きます。こうした歴史ドラマは、史実を踏まえ、ときには創作をまじえて展開するエンターテインメント作品です。「どうする家康」も、そうしたフィクションを盛り込んでおり、これが「史実と異なる」と、たびたび話題になっています。「どうする家康」のいくつかの場面を取り上げ、史実との違いを解説しましょう。

火縄銃の連射シーン

「どうする家康」の第2話では、徳川家康の生家・松平家の親戚筋にあたる「松平昌久」(まつだいらまさひさ)が、松平一門の宗主の座を狙い、徳川家康を討とうとしました。

この場面では、荷車に潜んでいた松平昌久配下の鉄砲兵らが突如、姿を現わし、徳川家康と家臣団に火縄銃を乱射します。この銃撃シーンが、火縄銃を連射しているように見えたことが物議を醸しました。

火縄銃は単発式だった

火縄銃の発射手順(上から見た図)

火縄銃の発射手順(上から見た図)

「どうする家康」第2話の時代設定は、1560年(永禄3年)に起きた「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)の直後でしたから、1543年(天文12年)に日本に伝わったとされる火縄銃が登場するのは誤りではありません。

しかし、火縄銃を発砲するには、次のように、いくつもの手順を踏まなければなりませんでした。

  1. 火縄に点火する。
  2. 銃口から火薬と弾丸を入れ、棒で銃身の奥へ押し込む。
  3. 火皿に点火薬を入れ、火蓋を閉じる。
  4. 火蓋を開けて、狙いを定める。
  5. 火縄を火ばさみに挟んで固定する。
  6. 引き金を引いて発砲する。
  7. 次の火薬と弾丸を銃口から入れ、2~6を繰り返す。

このように、火縄銃は1発ずつしか発砲できず、一度撃ったら次の発砲の準備に30秒ほどかかったため、劇中のような連射はできなかったと考えられます。

また、「どうする家康」の第3話では、「織田信長」が徳川家康の伯父「水野信元」(みずののぶもと)を火縄銃で脅す場面で、続けざまに2発、発砲していました。これは、織田信長の過激で冷酷なキャラクターが伝わる描写でしたが、実際にこうしようとするなら、装填済みの火縄銃を用意しておき、1発目を発砲したのち、急いで持ち替えなければできません。

清洲城は紫禁城?

「どうする家康」の第4話で、徳川家康は織田信長の居城「清洲城」(きよすじょう:愛知県清須市)に赴き、織田信長と対面します。

この場面に登場した清洲城の外観が、石畳を敷き詰めた広大な前庭を持つ、天守のない城郭だったため、かつての中国の皇宮・紫禁城(しきんじょう)のようだと話題になりました。

また、第4話には、徳川家康が織田信長の妹「お市の方」(おいちのかた)に案内されて、清洲城下の全景を見渡せる丘に登り、城下町の繁栄ぶりに驚くシーンがあります。これについても「清須市に、あのような丘陵地はないはず」という反響がありました。

織田信長時代の清洲城は平屋建てだった

清洲城

清洲城

現在の清洲城は4階建ての天守を備えており、確かに「どうする家康」で描かれた建築とはかけ離れています。

しかし、これは1989年(昭和63年/平成元年)に、桃山時代の城郭をモデルに再建されたコンクリート造りの復元城で、「どうする家康」第4話の時代背景である戦国時代の清洲城の姿ではありません。

また、織田信長が本拠地にしていた頃の清洲城に天守はなかったと考えられており、その点では、現在の復元城よりも、「どうする家康」第4話に登場した清洲城の方が史実に近いとも言えるのです。

ドラマの清洲城はコンピュータグラフィックスで描かれたと思われ、幻想的な仕上がりだったこともあり、現実離れしていると感じた視聴者が少なくありませんでした。

徳川家康が圧倒された清洲城と城下町

「どうする家康」第4話の徳川家康は、次々と敵対勢力を滅ぼしていた織田信長との対面におじけづき、お供の家臣から「弱腰になってはいけません」と発破をかけられています。

そして、織田信長が卓抜した政治力と経済政策で、清洲城下を大都市に発展させていることに圧倒されるのです。

劇中の紫禁城のような清洲城や、架空の丘から見渡した城下町は、怯える徳川家康の目に、それほど大規模に映ったという心理描写だったと捉えることもできるでしょう。

正室・瀬名と徳川家康の仲

瀬名」(せな)は、「築山殿」(つきやまどの)の呼び名でも知られた徳川家康の正室です。「どうする家康」では、徳川家康が結婚前から思いを寄せていた恋女房ということになっていますが、実際は有力大名「今川義元」(いまがわよしもと)が取り決めた政略結婚で徳川家康の正室になったと考えられています。

当時の今川義元は東海地方を広く領有し、徳川家康を人質に取って、その国元である三河国(現在の愛知県東部)にまで勢力を伸ばしていました。さらに、自分の姪である瀬名と徳川家康を結婚させて、三河国支配を固めようとしたのです。

「どうする家康」では相思相愛の夫婦。史実では?

築山殿

築山殿

「どうする家康」の瀬名は、若き日の気弱な徳川家康を励まし、家臣団から慕われる、慈愛に満ちた明るい女性ですが、従来の人物像は、今川家の人質だった徳川家康を見下す悪女のイメージが強く、また夫婦仲は冷めていたと言われてきました。

このように言われるのは、瀬名と徳川家康は別居生活が長く、この間に徳川家康は側室との間に多くの子をもうけていたことや、瀬名が徳川家康の決断によって悲痛な最期を迎えたことなど、いくつかの裏付けがあるからです。

妻子を置き去りにした徳川家康

今川家の人質だった徳川家康は、今川勢として「桶狭間の戦い」に参戦しましたが、この戦いで今川義元が討たれると、瀬名とわが子を今川家のある駿府(すんぷ:現在の静岡県静岡市)に置いたまま国元の「岡崎城」(愛知県岡崎市)に戻っています。

このため、瀬名とその両親は今川家に身柄を拘束されてしまいました。のちに瀬名は人質交換の形で岡崎に移りましたが、瀬名の両親は許されず、処分の末に亡くなっています。

こうした経緯に、瀬名が深く傷付き、夫の徳川家康を信頼できなくなったとしてもおかしくありません。

夫・徳川家康の家臣に殺害された瀬名

瀬名と徳川家康の長男「徳川信康」(とくがわのぶやす)は文武にすぐれ、瀬名は慈しんでいましたが、その正室で織田信長の愛娘だった徳姫とは不仲でした。

その一因は、徳川信康と徳姫の間に男児が生まれないのを理由に、瀬名が徳川信康に側室を持たせたことだと言われています。

娘・徳姫の不満を知った織田信長は怒り、徳川家康に徳川信康と瀬名を処分するよう命じました。その結果、徳川信康は切腹し、瀬名は徳川家康の家臣に殺害されています。

この悲しい結末に向けて、「どうする家康」の仲睦まじい瀬名と徳川家康の関係がどう変化していくのか、あるいは通説と異なる展開になるのかは、今後の見どころのひとつです。

まとめ

「どうする家康」は、徳川家康を「知恵と忍耐で戦国時代を勝ち抜いた成功者」ではなく、後ろ盾も意気地もない「か弱きプリンス」と捉える成長物語です。

これまでとは違う、英雄らしからぬ徳川家康が、悩み、迷いながら乱世を生き延びる姿に、現代人も共感することでしょう。

今後も「どうする家康」は、史料に残らなかった人の心の揺れ動きをすくい上げたり、新解釈を取り入れたりしながら、新たな徳川家康像を創り上げていくことが予想されます。そのたびに「史実と違う!」と盛り上がるのも、大河ドラマの楽しみ方のひとつです。

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