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北条実泰
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「北条実泰」(ほうじょうさねやす)は、「鎌倉幕府」の2代執権として実権を握っていた「北条義時」(ほうじょうよしとき)を父に持つ、鎌倉時代の武将。「北条氏」の一族である「金沢流北条氏/金澤流北条氏」(かねさわりゅうほうじょうし)の祖としても知られており、「金沢実泰」(かねさわさねやす)とも呼ばれていた人物です。 武人でありながら、歌人としても活躍していた北条実泰の生涯について解説すると共に、金沢流北条氏ゆかりの観光スポットについてもご紹介します。

北条実泰の生涯

北条実泰

北条実泰

北条実泰は1208年(承元2年)、北条義時の五男として誕生。母親については異説が多くありますが、北条義時の継室「伊賀の方」(いがのかた)であったことが通説となっています。

1214年(建保2年)に北条実泰は、7歳で元服。その儀式における「烏帽子親」(えぼしおや:元服の際に烏帽子を被せる者)は、北条実泰の従兄弟であり、鎌倉幕府3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が務めました。この時に北条実泰は、源実朝の偏諱(へんき:貴人などが用いる二字名のうち、一方の字)を賜り、初名を「実義」(さねよし)と名乗るようになったのです。

1223年(貞応2年)に北条実泰は、4代将軍「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)の傍近くに仕える「祗候番」(しこうばん)に就任。翌年に北条義時が急死すると、後継者を巡って「伊賀氏の変」が勃発。同変が起こったのは伊賀の方が、北条実泰の同母兄「北条政村」(ほうじょうまさむら)を次期執権の座に就かせようと画策したことが発端でした。しかし、伊賀の方の思惑は、「北条政子」(ほうじょうまさこ)によって未然に阻止されたのです。

伊賀の方は流刑に処されたものの、北条実泰は連座を免れ、父の遺領である武蔵国六浦荘(むつらしょう/むつうらしょう:現在の横浜市金沢区)を与えられました。北条実泰がこのような処遇を受けられたのは、3代執権となった異母兄「北条泰時」(ほうじょうやすとき)の配慮によるものであったと推測されているのです。また、この頃に北条泰時から偏諱を下賜され、「実泰」に名を改めたと考えられています。

  • 北条政子
    北条政子
  • 北条泰時
    北条泰時

1230年(寛喜2年)には、兄「北条重時」(ほうじょうしげとき)が「六波羅探題」(ろくはらたんだい)に就任。これに伴って北条実泰は、「小侍所別当」(こさむらいどころべっとう)に、後任として抜擢されました。しかし、伊賀氏の変以降、自身の立場が定まらないことに不安を覚えていた北条実泰は、精神的なバランスを崩してしまいます。そんな中で1234年(天福2年)6月26日、北条実泰が誤って腹を切り、気絶する騒動が起こりました。人々はこの騒動が、狂気の自害だったのではないかと噂していたのです。

同年6月30日、北条実泰は病を患ったことにより、まだ11歳の嫡男「北条実時」(ほうじょうさねとき)に家督を譲って自身は出家。その後、1263年(弘長3年)に、56歳で生涯の幕を閉じたのです。

金沢流北条氏の誕生

北条実泰が金沢流北条氏の祖となった経緯

鎌倉幕府における歴代執権を務め、その栄華を極めた北条氏。同氏の惣領(そうりょう:家督相続予定者のこと)の嫡流は、初代執権「北条時政」(ほうじょうときまさ)から始まり、「得宗家」(とくそうけ/とくしゅうけ)と呼ばれていました。

北条時政と北条義時の子孫達は、それぞれが鎌倉の重要地点を押さえて、複数の分流を誕生させます。「名越」(なごえ)や「大仏」(おさらぎ)などを通称とした彼らもまた、大いに繁栄したのです。そのひとつである金沢流北条氏の祖が北条実泰。しかし、北条実泰は27歳で出家していたため、実質的な金沢流北条氏の始祖は、その子・北条実時であったとされています。

金沢流北条氏の家名は、北条実泰が領していた武蔵国六浦荘金沢郷の地名が由来だと推測されていますが、通称として用いられるようになったのは、南北朝時代以降のことでした。

金沢流北条氏 周辺の家系図

金沢流北条氏-周辺の家系図

金沢流北条氏 周辺の家系図

金沢流北条氏ゆかりの観光スポット2選

金沢流北条氏の中でも特筆すべき人物は、父・北条実泰の跡を継ぎ、家勢の基礎を築くことに尽力した北条実時です。現在の横浜市金沢区に北条実時が創立した、①「金沢文庫」(かねさわぶんこ/かなざわぶんこ)と②「金沢山称名寺」(きんたくさんしょうみょうじ)は、現代にまで伝わる同区の観光スポットとして多くの人に親しまれています。

  1. 神奈川県立金沢文庫

    歌人でもあった父の影響を受けたのか、北条実時は学問を大いに好み、金沢流北条氏に必要な記録文書や和漢の書などを収集していました。これらを保管しておくために北条実時が創設したのが、日本最古の武家文庫と伝わる金沢文庫です。

    現在の場所に「神奈川県立金沢文庫」が建てられたのは、1990年(平成2年)のこと。歴史博物館となった金沢文庫は、国宝、及び重要文化財指定の絵画や古書などを多数所蔵しており、鎌倉時代の文化などはもちろん、金沢流北条氏についても窺い知れる企画展示が行われています。

  2. 金沢山称名寺

    称名寺 本堂

    称名寺 本堂

    金沢文庫に隣接する金沢山称名寺は、金沢流北条氏一門の菩提寺として創建。御本尊である「弥勒菩薩」(みろくぼさつ)は、重要文化財に指定されています。

    鎌倉幕府と共に同氏が滅亡すると、金沢文庫の蔵書などを同寺が管理するように。このように金沢文庫と深い関係があった称名寺は現在、「中世の隧道」(ちゅうせいのずいどう)と称するトンネルによって、県立金沢文庫と繋がっています。

    また称名寺は、北条実泰の七回忌の際に、北条実時が父を供養するため、梵鐘(ぼんしょう)を鋳造したお寺としても知られているのです。

    国の史跡に指定されている称名寺の境内には、金堂(こんどう)や釈迦堂が建てられ、阿字ヶ池(あじがいけ)を挟んで緑豊かな浄土式庭園が広がっています。これらが合わさった風光明媚なこの場所は、写真スポットとしても人気です。

    なお、江戸時代の人気浮世絵師「歌川広重」(うたがわひろしげ)が手掛けた、名所浮世絵揃物(そろいもの:シリーズ作)である「金沢八景」(かなざわはっけい)の「称名晩鐘」(しょうみょうのばんしょう)には、海から眺めた称名寺周辺の風景が描かれています。

    「金沢八景 称名晩鐘」(国立国会図書館ウェブサイトより)

    歌川広重 「金沢八景 称名晩鐘」

【国立国会図書館ウェブサイトより】

  • 歌川広重「金沢八景 称名晩鐘」

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