13人の合議制(鎌倉殿の13人)関連人物

北条泰時
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鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)は、鎌倉幕府で実権を握り、多くの御家人を排除して「執権政治」を確立させた「北条氏」の中興の祖。そして、武家政権最初の武家法である「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)、別名「貞永式目」(じょうえいしきもく)を制定したことでも知られる人物です。政務においてカリスマ的な才能を有していただけではなく、人柄も優れていたと言われる北条泰時とは、どのような人物だったのか。ここでは、北条泰時の生涯と、北条泰時が定めた「御成敗式目」についてご紹介します。

北条泰時(ほうじょうやすとき)とは

3代執権の人柄

北条泰時

北条泰時

「北条泰時」は、1183年(寿永2年)に鎌倉幕府2代執権「北条義時」(ほうじょうよしとき)の庶長子(しょちょうし:側室から生まれた長男)として誕生。母は北条義時の側室「阿波局」(あわのつぼね)。鎌倉幕府初代将軍「源頼朝」の妻「北条政子」と北条泰時は、伯母と甥の関係にあります。

北条泰時が若い頃のエピソードはあまり残されていませんが、北条泰時と源頼朝の関係を示す逸話が存在。それは、北条泰時が10歳の頃のこと。源頼朝に呼び出されたため、北条泰時がそこに向かうと、なぜか御家人の「多賀重行」(たがしげゆき)が同席していました。

訪れたばかりの北条泰時へ、源頼朝は「先ほどの出来事を見ていた。多賀重行は、外戚[がいせき:妃や権力者の娘の一族]である北条泰時に対して非礼を行っただろう」と確認してきたのです。じつは、源頼朝から呼び出される少し前に、北条泰時は多賀重行と道ですれ違っていました。このとき、北条泰時は徒歩、対して多賀重行は馬に乗ったまま通り過ぎていたのです。

外戚である北条氏は、幕府内でも高い地位を有していました。そのため、通常なら下馬の礼(目上の相手に対して敬意を表し、馬から下りること)を行うのが当然だと源頼朝は考えたのです。北条泰時は、非礼を働いた多賀重行が罰されることを恐れて「私は非礼な態度を取られたとは思っておりません。私も考えごとをしながら歩いていたのです。なので、私の方こそ礼を欠いていました」と多賀重行を庇います。

北条泰時の弁明に、多賀重行も「いかにも。私は非礼を働いておりません」と主張。ところが、源頼朝は多賀重行の主張に激怒。「言い逃れをするために嘘をつき、外戚である北条泰時に庇わせるとは。いかなる理由があろうと下馬をしなかったのは事実であろう」と言い放ち、源頼朝は多賀重行の所領を没収。そして、多賀重行を庇った北条泰時の寛大さを称え、褒美として太刀を与えたと言います。

伊賀氏の変

後鳥羽上皇

後鳥羽上皇

北条泰時は、父・北条義時に付いて、有力御家人だった「比企氏」(ひきし)や「和田氏」などを滅亡に追い込んだ数々の戦に参戦しながら、実績を積んでいきました。1221年(承久3年)の「承久の乱」では、幕府軍の総大将に抜擢。

後鳥羽上皇」率いる討幕軍を破り、京都に設置された「六波羅探題」(ろくはらたんだい:鎌倉幕府が京都の[六波羅]に設置した、朝廷の動きを監視するための機関)の初代代表に就任します。

六波羅探題では、朝廷の監視や承久の乱のあと処理、御家人・武士などの統括にあたり、北条泰時は北条氏の地位を着実に押し上げていきました。1224年(貞応3年)、父・北条義時が急死。これをきっかけに、ある事件が起きます。それは、「伊賀氏の変」と呼ばれる、北条泰時の継母にあたる北条義時の妻「伊賀の方」が起こした事件のこと。

伊賀氏の変は、次期執権として期待されていた北条泰時の行く末を左右する出来事となりました。伊賀の方は、北条義時との間に「北条政村」(ほうじょうまさむら)と言う息子がいます。北条泰時と北条政村は異母兄弟になりますが、伊賀の方は自分の息子である北条政村を次期執権にしようとしたのです。

北条政子

北条政子

そのために、伊賀の方は幕府内で権勢を振るっていた「三浦氏」に協力を得て、北条泰時派の御家人達を幕府から追い出そうとします。

しかし、この計画に気付いた人物がいました。それが北条政子です。伊賀の方が頻繁に三浦氏と交流していることに疑問を抱いた北条政子は、単身で三浦氏当主「三浦義村」(みうらよしむら)のもとへ訪ねて尋問。

このとき、北条政子は「次期執権は北条泰時と決まっている。最近、三浦殿は伊賀氏と懇意にしているようだが、良からぬ企みは身を滅ぼすことになるぞ」、「今後も伊賀氏に協力するのか、それとも北条泰時を擁立するか、この場で決断して頂きたい」と迫りました。

三浦義村は、伊賀の方の陰謀にかかわっていましたが、北条政子の脅しに屈して伊賀の方へ協力することを断念。後日、北条政子は有力御家人のひとり「大江広元」(おおえのひろもと)と協議を行い、北条泰時を3代執権にすることに成功します。

一方で、北条氏失脚を企んだ伊賀の方は、謀反の罪によって流罪が確定。このとき、伊賀の方が擁立しようとした北条政村自身や、事件への加担を疑われた三浦義村には謀反の意思がないと判断されて、特に咎めもなく事件は幕を閉じました。

評定衆の設立

1225年(嘉禄元年)、北条泰時が頼りにしていた幕府の重鎮・大江広元と、北条政子の2人が相次いで死去。北条泰時はこれをきっかけにして、幕府に新たな体制を設立することを決意します。それが執権の補佐役である「連署」(れんしょ)の新設と、幕府の最高議決機関・訴訟機関となる「評定衆」(ひょうじょうしゅう)の設立です。

連署は「副執権」とも言うべき機関で、叔父にあたる「北条時房」(ほうじょうときふさ:北条義時・北条政子の異母弟)が選ばれました。これによって、「両執権」と言う複数執権体制が確立します。そして、評定衆は「13人の合議制」を参考にした機関で、執権である北条泰時をサポートするために設立されました。

11名の有力御家人で構成されており、これに執権と連署が加わって合計13人になります。こうして、幕府運営は合議制で行われていくことになるのです。なお、北条泰時はこのとき、自分自身の政治基盤の脆さを知っていたのではないかと見られています。

一説によると、評定衆は北条泰時のサポートが表向きの設立理由ですが、じつは有力御家人達の不満を抑えるために設立されたのだとか。また、叔父・北条時房を連署として任命したことの他に、父・北条義時が没したあとの遺産相続では、所領を弟や妹達にほとんど与えたと言う話も存在。これは、北条氏一族が仲違いを起こさないようにするために行ったのではないかと言われています。

北条泰時は、御家人だけではなく、親族達に対しても反感を買わないように、周りの人びとの不満をひとつずつ解消することで、政治を円滑に進められるようにしただけではなく、北条氏の権勢を保つことができるように工夫したのです。

北条泰時の働き

北条泰時と鎌倉殿の関係

1225年(嘉禄元年)、評定衆が設立された翌年、公家である「九条道家」(くじょうみちいえ)の三男で、源氏と藤原氏両方の血を引く「藤原頼経」(ふじわらのよりつね)が鎌倉幕府4代将軍に就任。それまでの将軍は、純粋な源氏出身者が選ばれていましたが、源氏と藤原氏両方の流れを汲む藤原頼経が将軍に選ばれた背景には、ある理由がありました。

3代将軍「源実朝」(みなもとのさねとも)が没した当時、次期「鎌倉殿」(かまくらどの:鎌倉幕府将軍)の候補者選びは大変難航していたのです。その理由は、源氏の血を引いた者が将軍になれば、御家人から反感を持たれる恐れがあったため。2代将軍「源頼家」(みなもとのよりいえ)や3代将軍・源実朝は、初代将軍・源頼朝とは異なり、北条氏による執権政治によって「お飾りの将軍」として存在していました。

そして、これはかつて源頼朝が築いた源氏の地位が、地の底まで落ちていたことを意味します。4代将軍に藤原頼経が選ばれる以前、北条政子は後鳥羽上皇の息子を将軍に担ぎ上げることを画策していました。しかし、その作戦は後鳥羽上皇の独断によって失敗。

そこで、御家人達を納得させたうえに、実権はこれまで通り北条氏に握らせる人物を将軍に据えるため、藤原頼経に白羽の矢を立てたのです。京から迎えられた当時、藤原頼経は2歳と言う年齢。引き続き北条氏の政権を行うにはうってつけの存在でした。

なお、北条泰時は、執権と言う立場はあくまでも征夷大将軍(鎌倉殿)が存在するからこそ、成立していたと言うことを理解していたと言います。そのため、評定衆の会議で定められたことは、常に鎌倉殿に報告し、「幕府の最高権威はあくまでも鎌倉殿にある」と言うことを主張。鎌倉殿と執権は、主従関係の模範的な存在であることを意識し続けたと言います。

北条泰時の晩年

北条泰時は、鎌倉殿や御家人、親族だけではなく、様々な機関とも友好的な関係を築いていました。そして、それは何かとトラブルが起きがちな幕府と朝廷の関係にも影響を与えます。例えば、御家人の詰め所である「篝屋」(かがりや)を各所に設置することで、京都の治安向上を計画。そして、公家のなかに自身の親戚がいることを利用し、朝廷内の様々な情報を収集。

北条泰時が率先して、幕府と朝廷の仲を取り持つことで、友好関係が続いたと言います。しかし、北条泰時と朝廷の関係は、あるときから急激に悪化することに。それは1242年(仁治3年)、第87代天皇「四条天王」が崩御したことがきっかけとなります。

後嵯峨天皇

後嵯峨天皇

次期天皇の候補となったのが、第84代天皇「順徳天皇」の皇子「岩倉宮忠成王」(いわくらのみやただなりおう)ですが、北条泰時は順徳天皇が承久の乱の首謀者であることを理由に強く反対。

「もしも、岩倉宮忠成王が即位したならば、すぐに退位を強行する」として、公家達の反対を押し切り、「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)を擁立。

こうして、後嵯峨天皇が第88代天皇として即位することになったのです。一方で、北条泰時の強引なやり方は、九条道家をはじめとした京都の公家衆から反感を抱かれることになり、関係が悪化。1242年(仁治3年)5月、北条泰時は出家して「上聖房観阿」(じょうしょうぼうかんあ)と名乗るようになりました。

しかし、約1ヵ月後の1242年(仁治3年)6月、それまでの過労がたたってこの世を去ります。享年60。一説によると、執権時代最後の大仕事となった皇位継承問題が、大きな心労の原因となったのではないかと言われています。

御成敗式目とは

幕府の新しい基本法典

御成敗式目(国立国会図書館ウェブサイトより)

御成敗式目
(国立国会図書館ウェブサイトより)

評定衆が定められた当時、話し合いがうまくまとまらないことが多くありました。それは、様々なトラブルを解決するうえで、ルールや共通認識が存在しなかったことが理由として挙げられます。

これを解決するために北条泰時が制定したのが「御成敗式目」です。御成敗式目とは、公平な裁判を行う際の基準となる、武士政権の新たな法令のこと。

当時、幕府の勢力拡大とともに、地頭として派遣された御家人や公家などの荘園(しょうえん:貴族の領土や所有する土地の区画)領主と、現地住民の間で法的なトラブルが増加していました。また、それだけではなく御成敗式目が制定される直前には「寛喜の飢饉」(かんきのききん)と呼ばれる、鎌倉時代最大規模の飢饉が発生しており、市中に餓死者が溢れ、食い扶持を減らすための人身売買が横行するなど、多くの社会問題が発生していたのです。

御成敗式目の制定には、こうした社会的混乱を治める目的もあったと言われています。御成敗式目は、源頼朝が活躍する以前の先例に加えて、武家社会における慣習・道徳をもとにして制定されました。北条泰時は、御成敗式目を制定するにあたって、京都で活動する法律家に助言を求め、毎朝熱心に勉強したと言います。

1232年(貞永元年)8月、北条泰時は評定衆と協力して全51箇条で構成される御成敗式目を完成。幕府の新しい基本法典は、そのあと訪れる室町幕府や戦国時代の家法(かほう:戦国大名が領国内を統治するために制定した基本的な法のこと)にも大きな影響を与えます。

御成敗式目51箇条の概要

北条泰時が定めた御成敗式目は全部で51箇条です。条文や刑法は、その時代の背景を知るうえで非常に重要となる存在。ここでは、御成敗式目の各条文の内容と、条文が定められた背景についてご紹介します。

第1~2条「寺社・仏閣に関すること」

御成敗式目の第1条は「神社を修理し祭祀専らにすべきこと」(神社を修理し、祭りを盛んに行うこと)。神社を綺麗に保つことが、人びとの幸せにも繋がると説いています。

第2条は「寺塔を修造し、仏事等を勤行すべきこと」(寺や塔を修理し、僧侶の務めを欠かさずに行うこと)。お寺もまた、神社と同じく大切にすべき場所です。日々のお勤めをおろそかにしたり、お寺の物を勝手に使ったりする僧侶は、ただちに職を解いて追い出すことが義務付けられました。

第3~6条「幕府・朝廷の関係について」

第3条は「諸国守護人奉行のこと」(守護の仕事について)。当時、守護は朝廷警護を御家人へ命じたり、謀反人・罪人・強盗・山賊・海賊などを取り締まったりするのが仕事でした。しかし、仕事と偽って勝手な振る舞いをする者が多くいたため、そうした行為はすべて禁止されたのです。

第4条は、「同じく守護人、ことの由を申さず、罪科の跡を没収すること」(守護が強制的に罪人から所領を没収することの禁止)。幕府の指示を待たずに、守護が勝手に罪人の財産を没収すると言う事案がたびたび起きていました。そのため、重罪人であっても守護が勝手に財産を没収することを禁止したのです。

第5条は、年貢を適切に納めない地頭へ対する処分について。また、第6条は国司や領家の裁判に幕府は介入しないことが書かれています。これは、御成敗式目はあくまでも「御家人達に対する法典」であるため、所領内のプライベートな争いごとには介入しないことを指しているのです。なお、御成敗式目はのちに、御家人以外にも適用される法典へと改良されることになります。

第7~8条「裁判を行う上で重要な2つのこと」

第7条に定められたのは、「源頼朝公や北条政子様から与えられた所領の扱い」のこと。これは、2人から与えられた所領は、その人の働きによって得た土地であるため、どのような場合でも没収されることがない(所領が保証される)ことを意味しています。

第8条は、「領地に関すること」が定められました。具体的には、領地の保証証明書である「御下文」(みくだしぶみ)がなくとも、20年以上実質的に支配した土地は、その土地を支配していた御家人の所領として認められたのです。なお、実際に支配していないのに、それを偽っていた場合は所領を没収されたと言います。

第9~17条「刑法について」

第9~17条には、「罪人に対する扱い」が定められました。例えば、謀反の刑罰を細かく決めることは難しいため、ケースバイケースで、過去の事例と照らし合わせながら処分を決めた他、文書を偽造した場合は所領を取り上げるなどの罰が与えられたと言います。

また、第16条と第17条は、承久の乱の戦後処理に関する内容を記載。第16条では、謀反に関することが書かれています。戦後、謀反の罪で所領を奪われても、あとになって謀反人ではないと判明した場合は所領が返却されましたが、反対に謀反に参加していたことが判明した場合は、所領の5分の1を取り上げると言った内容です。

第17条では、父子が幕府と朝廷それぞれで戦っていた場合の処分について書かれています。父子のうち、幕府側に就いていた者は恩賞が与えられますが、反対に朝廷側に就いていた者は問答無用で罰せられました。

第18~27条「家族間での遺領分配、及び遺産相続について」

第18~27条には、遺領分配や遺産相続に関することが書かれています。このうち、第18条と第23条では「女性の所領に関すること」を記載。これまでは、所領が女子に譲られたあとは親へ返還する義務はありませんでした。つまり、一度でも娘に所領が渡ると、二度と取り返すことができなくなるため、意図的に女子へ相続されない問題があったのです。

しかし、御成敗式目の第18条によって、親子関係の不和など、仕方ない理由がある場合は親が娘の所領を取り戻すことができるようになりました。また、第23条によって、女性の御家人が養子を貰うことが可能に。

じつは、これまでの公家の法律では、女性の御家人が跡継ぎとして養子を迎えることは禁止されていたのです。しかし、武家は公家と異なり、戦わなければなりません。そのため、跡継ぎがいない場合は事前に養子を取り、子に所領を相続させることを認めたのです。

第28~31条、第35条、第45条「訴訟法」

第28~31条、第35条、第45条は「裁判に関する対処法」が記載されています。「嘘をでっち上げて裁判を起こしてはならない」や「裁判に負けた場合、不服として裁判官に虚偽の証言を持ち出して上告することの禁止」、「裁判所からの呼び出しを無視した場合の処置」などが定められました。

第32~34条「重罪とされた刑法の厳罰化」

第32~34条に記されているのは、従来重罪とされた刑法のさらなる厳罰化です。第32条は「領内へ逃げ込んできた盗賊・悪党などの保護禁止」。

第33条は「強盗・放火などの処罰と予防」。また、第34条には当時問題となっていた不倫や辻捕り(つじどり:女性を拉致すること)などに対する処罰について書かれています。

不倫は、合意があってもなくても、男女どちらも所領を減らされて、さらに遠国へと流刑されました。また、辻捕りに関してはかなりの件数の被害があったと推測されており、なかには僧侶が犯行に及んでいたとも言われています。

第36~38条、第43~44条、第46~48条「領地・所領に関すること」

第36~38条、第43~44条、第46~48条には「領地や所領に関すること」が定められました。例えば、第36条は「領地の境界線に関すること」が書かれています。

領地には境界線がありますが、それを意図的に広げて自分の土地を拡大しようとする者がいたのです。自身の領地が狭くなっていることに気付いた被害者の名主(みょうしゅ:地主)は、これを幕府へ報告。

訴えによって現地調査が行われ、その結果、訴え通りに不当に境界線が拡大されていた場合、意図的に領地を広げた者が、被害者の名主へ土地を与えるように罰せられました。なお、このときに与えられた土地は、不当に広げた領地と同じ面積の土地とされています。

第39~40条「官位の手続きについて」

第39~40条は、「官位に関する手続き」が書かれています。官位とは、朝廷から授けられる位のこと。官位は活躍した者に対して、幕府が推挙することで与えられるのが一般的であり、間違っても直接朝廷へ「官位を頂きたいです」とねだるような行為は禁止されていたのです。なお、受領(ずりょう:諸国の長官)など特定の役職に就いている者は、例外的に幕府の推挙がなくても官職を授かることができたと言います。

第41~42条「奴婢や雑人、逃亡した農民の扱いについて」

御成敗式目では、奴婢(ぬひ)や雑人(ぞうにん)と呼ばれる、社会的な身分が低い人びとの自由も保証されました。また同様に、領内から脱出した農民の自由も保証され、未納の年貢を納めさせる以外の処罰は原則的に禁じられます。

第49条「裁判をスムーズに行うための措置」

第49条では、裁判をスムーズに行うためにある措置が認められました。それは、原告と被告の証言をもとに出来事を判断し、どちらの言い分にも相違がない場合に限り、原告・被告ともに法廷へ呼ばずに判決を下すと言う措置です。裁判にかける時間を大幅に短縮することで、他の事件にかける時間を確保しました。

第50~51条「追加刑法」

第50~51条は、のちに追加された刑法です。第50条は「暴力事件に関すること」。一説によると、当時は暴力事件が起きた場合、野次馬のなかからどちらかに加勢して騒ぎを大きくする者が少なからずいたと言われています。そのため、暴力事件が起きた際、どのような経緯で事件が起こったのか、その調査をする人以外は現場へ駆け付けることが禁止されました。

第51条は「裁判に際して、原告と被告の間で起きるトラブルを防ぐこと」が書かれています。当時、裁判が行われる際は「問状狼藉」(もんじょうろうぜき)が問題となっていました。問状狼藉とは、裁判によって権利を侵害された被告が、判決を待たずに幕府の権威を使って原告を脅し、権利回復を狙うことです。

当時のルールでは、幕府は原則として当事者にかかわらないよう、原告が被告へ直接「問状」(もんじょう/といじょう:陳状[ちんじょう:訴えに対する被告の反論や弁明の書類]の提出を命じる書類)を手渡していました。そのため、手渡すその現場で被告が原告を脅すトラブルが多く発生していたと言います。御成敗式目の第51条では、問状狼藉を罰則の対象として、原告と被告の間でトラブルが起きないように禁止したのです。

御成敗式目の評価

御成敗式目は、いずれの規定も「幕府が御家人に対して定めたもの」となっており、当初は御家人のために作られた法律でした。しかし、のちに寺社・公家などの裁判でも適用されるようになります。そして、鎌倉時代だけではなく、鎌倉幕府が滅亡したのちに開かれた室町幕府や「江戸幕府」でも、御成敗式目の規定は手本とされました。

御成敗式目を制定した北条泰時は、執権となって以降、毎朝法律の勉強を欠かさず行っていたと言います。また、このときに独学ではなく、評定衆のなかでも法律に詳しい数名を呼び出して、協力しながら研究を続けたのです。

当時、適用されていた法律は「律令」でしたが、律令は武家社会には合わない法律でした。なぜなら、武士の多くがその法律を知らなかったため、たとえ法を破っても罪意識を感じることはありません。さらに、その刑罰が非常に軽かったのも、武士が平気で法律を破る原因のひとつになっていたと言われています。

一方で、法律を破ると言う行為は下級武士に限った話ではありません。初代執権「北条時政」(北条泰時の祖父)もまた、公家法では違法とされていた「盗賊は検非違使[けびいし:警察や裁判官などにあたる役職]へ引き渡すこと」、及び「独断で死刑を行うことの禁止」を破り、盗賊を死刑に処したことがあります。

法改正は、いつの時代でも先例がないと行われません。北条時政の違法行為も、先例となったことで秩序が生まれ、新たな法として利用されました。

令和時代においても、遡れば御成敗式目に辿り着く法律は多くあります。日本の基本的な法典を御成敗式目として定めた北条泰時。

平和を保とうと様々な場面で仲介を行った一方で、誰からも侮られることのない「名執権」として活躍したその人物像は、現代でも高く評価されています。

北条泰時

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