皇室では生前退位や天皇崩御の際に、三種の神器の「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)の2つを継承する「剣璽等承継の儀」(けんじとうしょうけいのぎ)が行なわれるなど、天皇が相伝(そうでん:代々受け継いで伝えること)するものがあります。天皇の即位以外にも、皇太子(皇位継承権第一位の者)に相伝する宝刀があり、それが今回紹介する「壺切剣」(つぼきりのつるぎ)です。
藤原長良
壺切剣の最初の所持者は、太政大臣・藤原長良(ふじはらのながら)と言われていますが、どのようにして手に入れたかは分かっていません。
漢の皇帝・劉邦(りゅうほう)を支えた名軍師・張良(ちょうりょう)の剣が日本にわたったと言う説がありますが、長良を音読みして張良と勘違いしたと言われています。
壺切剣の名前の由来は、かつてこの剣で酒壺を切り割った故事から命名されることになりました。
壺切剣は、長良のもとから一度、文徳天皇(ぶんとくてんのう)へわたり、陰陽師によってお祓いされて土中へ埋められましたが、文徳天皇はお祓いの甲斐なく早世。その後剣は行方不明となってしまいましたが、神泉苑(京都府京都市)の近くで発見され、藤原家に返されました。
その後、長良の子で太政大臣を継いだ藤原基経(ふじはらのもとつね)が宇多天皇(うだてんのう)に壺切剣を献上。
893年(寛平5年)、醍醐天皇(だいごてんのう)の立太子の礼(りったいしのれい:跡継ぎ・皇太子を立てる儀式)の際に、宇多天皇が贈ったことから立太子の礼にて壺切剣を相伝するようになりました。
醍醐天皇も同様に、904年(延喜4年)保明親王(やすあきらしんのう)の立太子の礼にて壺切剣を相伝しました。しかし、保明親王は天皇に即位することなく、21歳の若さで亡くなりました。
壺切剣
平安時代中期、天皇の外戚(天皇や王の母親、または妃の一族)として政治の実権を握っていた藤原家が、皇室の催事である壺切剣の相伝にまで口を出すようになりました。
後一条天皇(ごいちじょうてんのう)が1016年(長和5年)に、敦明親王(あつあきらしんのう)を皇太子にすると、左大臣・藤原道長(ふじはらのみちなが)が敦明親王の母は藤原家ではなかったため、壺切剣を差し出しませんでした。
そのため、敦明親王は皇太子を辞退。1017年(寛仁元年)に藤原家の血縁にあたる、後朱雀天皇(ごすざくてんのう)が皇太子になり、道長は壺切剣を差し出しました。
藤原道長の子「藤原教道」(ふじはらののりみち)も、藤原道長と同様の行為を行ないます。
1045年(寛徳2年)、「後三条天皇」(ごさんじょうてんのう)が皇太子になると、母が藤原家でなかったため壺切剣を差し出しませんでした。
1068年(治暦4年)、後三条天皇が天皇に即位すると、藤原教道も関白に就任。すると藤原教道は機嫌を直し、壺切剣を献上しようとしましたが、今度は後三条天皇が「今さら無用」と拒絶しました。
そのため仕方なく持ち帰りましたが、同年に藤原教道の邸が炎上し、壺切剣も焼け身(刀身が火を被り、刃紋が失われている状態)となってしまいました。その後新たに外装を施し、献上したと伝わっています。
この焼け身とは別に焼失した説もあります。
一説が、後三条天皇が皇太子時代に壺切剣を受け取っており、1059年(康平2年)に皇居一条院炎上で焼失したと言う説。
もう一説が、「白河天皇」(しらかわ てんのう)の立太子の礼にて壺切剣を相伝したが、1072年(延久4年)に皇居一条院炎上で焼失したと言う説。
後者は、皇居炎上と言う事実がないため、極めて信憑性が低い説となります。
平安時代後期の1166年(仁安元年)、「高倉天皇」(たかくらてんのう)の立太子の礼にて、壺切剣を授けられました。
次の「安徳天皇」(あんとくてんのう)も、1178年(治承2年)誕生の翌月に皇太子になり、高倉天皇から相伝。
その後「後鳥羽天皇」(ごとばてんのう)、「土御門天皇」(つちみかどてんのう)、「順徳天皇」(じゅんとくてんのう)も立太子の礼にて相伝されました。
順徳天皇は1221年(承久3年)に譲位(君主が存命中の間に、その地位を後継者へ譲り渡す行為)し、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)に返還。しかし、同年に勃発した承久の乱で、壺切剣は行方不明になりました。
1243年(寛元元年)に「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)が誕生し、その2ヵ月後に立太子の礼が行なわれましたが、壺切剣がなかったため、右大臣「西園寺実氏」(さいおんじさねうじ)が模造させた物で代用。次の1259年(翌正元年)、「亀山天皇」(かめやまてんのう)の立太子の礼でも代用の剣が使われましたが、同年に本物が発見されたため、改めて本物の壺切剣を授かりました。
その後、壺切剣は立太子の礼にて途切れることなく江戸時代まで相伝され続けましたが、1661年(万治4年)と1663年(寛文3年)に、内裏(だいり:宮城における天皇の私的区域)が炎上し、罹災。刀身には異常がなかったため、幕府が外装を新調して献上し、その後も皇太子に相伝され続けました。
宮内庁の刀剣台帳によると、直刀で先三寸(約9.1cm)ほどは両刃、中心は反り、目釘孔は2個、大きく複雑な形をしていると書かれています。
立太子の礼
拵(こしらえ)の破損がかなりひどく、蒔絵(漆の樹液を塗った物)師・遠藤(えんどう)が補修。明治時代以前は、立太子の礼が行なわれて初めて皇太子と呼ばれましたが、明治時代の「皇室典範」(こうしつてんぱん)によって、皇長子は生まれると同時に皇太子と呼ばれることになりました。
一方で、成人すると立太子の礼が行なわれるようになり、その際に天皇から皇太子に壺切剣が相伝されます。
平安時代には、藤原家が政権を握り続けるための政治の道具として使われることもありましたが、皇室の宝刀として1000年以上も皇太子に相伝され続けた「壺切剣」。今後、立太子の礼が行なわれることがあれば、注目していきたいですね。