こんにちは。刀剣ワールドライターのあおむしです。2023年(令和5年)6月25日(日曜日)に大河ドラマ「どうする家康」第24話「築山へ集え!」が放送されましたね。「築山へ集え!」では、東国に巨大な国を作るという、「瀬名」(せな)が描いた途方もない夢を実現するために賛同者を得て、「築山殿事件」へと着々と近づいていました。今回の刀剣ライターのつぶやきでは、築山殿事件の中心的存在となる瀬名と、大河ドラマ「どうする家康」内で築山事件の発端となった、「織田信長」をはじめとする戦国武将の戦争観にフォーカスしていきましょう。
瀬名(築山殿)
大河ドラマ「どうする家康」内において、徳川家康と仲睦まじい夫婦である瀬名は、穏やかで心優しい、徳川家康の初恋の人として描かれています。
通称「築山殿」(つきやまどの)とも呼ばれ、徳川家康との間に長男「松平信康」(まつだいらのぶやす)と長女「亀姫」(かめひめ)をもうけました。
父は今川家の有力家臣「関口氏純」(せきぐちうじずみ)、母は「今川義元」の妹とも、井伊家出身の女性だともされています。
とにかく、今川家の姫であった瀬名は徳川家康と結ばれますが、「桶狭間の戦い」で織田信長に今川義元が敗れると、瀬名の父母は殺害され、夫・徳川家康は父母の仇でもある織田信長と同盟を結ぶこととなるのです。
通説では、織田家への恨みを忘れられなかった瀬名は、織田信長の娘で、松平信康の妻となった「五徳」(ごとく:徳姫とも)にもつらく当たり、不仲であったと伝わっています。そういった状況下で、五徳は、瀬名が甲斐国(現在の山梨県)出身の唐人医師と密会していること、敵対関係にある武田家と密通している疑いがあること、瀬名からひどい仕打ちを受けていることなどを12項目からなる訴状にして、父・織田信長に送りました。
この「十二ヶ条の訴状」を発端とし、瀬名、松平信康の両名は裏切りの罪で処刑されることとなってしまうのです。従来、瀬名と松平信康は、織田信長の命で処刑をされたと考えられてきましたが、近年の研究では、徳川家康自身が両名の処分を命じたとも推察されています。
「三河物語」(みかわものがたり)、「徳川実紀」(とくがわじっき)などの後世に書かれた史料からしか情報を得られないことから、詳細は明らかになっていません。
「どうする家康」第24話「築山へ集え!」の冒頭で、瀬名は第20話「岡崎クーデター」の首謀者「大岡弥四郎」(おおおかやしろう)のセリフを思い返していました。この時、大岡弥四郎はいつまでも続く戦に疲弊しきっており、「織田に付く限り戦は終わらない」と不満を噴出させます。
確かに、戦国時代は合戦に次ぐ合戦で、日本全国どこにいても戦いから逃れられないような時代でした。戦国時代というと、日本全国の武将がそれぞれ天下統一を目指し、誰もが覇者になることを望んでいる、というイメージがある人もいるでしょう。
しかし、実際はどの戦国武将も元々天下統一を目指していたわけではないと考えられているのです。なかでも、義や秩序を重んじる戦国武将「上杉謙信」(うえすぎけんしん)、「天下布武」(てんかふぶ)を掲げた織田信長は、「室町幕府の再興」を目指していました。
この天下布武という言葉も、京都において室町幕府を中央とし、天下を再興するという意味が込められているとされています。1568年(永禄11年)、織田信長は、京都より追放されていた室町幕府第15代将軍「足利義昭」(あしかがよしあき)を奉じ、上洛。
織田信長
足利義昭
五畿内(ごきない)と呼ばれる、摂津国(現在の大阪府北中部、兵庫県南東部)、河内国(現在の大阪府東部)、和泉国(現在の大阪府南西部)、大和国(現在の奈良県)、山城国(現在の京都府)の5国を平定し、室町幕府の再興を狙っていました。
織田信長は室町幕府の臣として五畿内における紛争の解決などにあたりますが、その過程で数多くの合戦を重ねていきます。ただし、織田信長は足利義昭を傀儡(かいらい:操り人形)とした政権を目論んでいたため、最終的には決裂。西側諸国との合戦も激化していったのです。
西側を攻める織田信長に対し、徳川家康は織田信長の背後となる東側を守っていました。そのため、「武田信玄」(たけだしんげん)をはじめとする東国の雄との合戦を重ね、国は疲弊していきます。そこで起こったのが「岡崎クーデター」、通称「大岡弥四郎事件」でした。
「どうする家康」において、大岡弥四郎は織田に追従する徳川家を裏切り、武田軍へ寝返ろうとした理由に、「戦はもうこりごり」と言います。しかし、武田軍へ寝返れば戦働きを行わなくても済むのかと言われれば、それは否。
「武田勝頼」(たけだかつより)は、武田信玄亡きあとも精力的に領土の拡大を進めており、徳川家が倒れたとしても、北条氏、上杉氏、伊達氏と同盟、合戦を繰り返し、戦が止むことはなかったでしょう。織田信長は「比叡山延暦寺」(滋賀県大津市)の焼き討ちなどで残虐な手法を取っていましたが、合戦の数に関しては、どの陣営も同じだったと言えるのです。
瀬名の描いた東国の夢は、やがて徳川家康が行う国づくりへと反映されていきます。徳川家康は壮年期、晩年期にかけて多くの武将と外戚関係を作り、確固たる縁を繋ぎました。
「関ヶ原の戦い」においても、マメに文書を送ることで信頼関係を作り、敵対者を味方に引き入れたことで勝利へ繋がっています。瀬名の描いた夢は、元々双方の信頼関係があってこそ実現する、戦国時代において薄氷の上を歩くような試みです。
武田勝頼と徳川家康の間に信頼関係がないまま動き出した瀬名の夢は、武田勝頼の一存で雲散霧消してしまいました。織田信長が裏切りを許さないというのも、信頼関係によって国力が上がることを理解しているからなのかもしれません。