筑前福岡藩(現在の福岡県福岡市)第5代藩主「黒田宣政」(くろだのぶまさ)の養嗣子であった「長好」(ながよし:幼名・菊千代[きくちよ])は、1714年(正徳4年)に第7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)に謁見して元服し、家継の偏諱を賜って「継高」(つぐたか)に改名しました。このときの引出物として下賜されたのが本刀。
このことは、江戸幕府によって編纂された徳川家の歴史書である「徳川実紀」(とくがわじっき)の「筑前福岡黒田家刀剣目録」にも記載されています。もともとは、尾張徳川家が所有していましたが、将軍徳川家に譲られ、最終的には黒田家に伝来することになったのです。
兼光は、備前国(現在の岡山県南東部)長船派の名工「景光」(かげみつ)の子として伝えられています。兼光の作風は、初期には、丁子乱れや父・景光が創始した肩落ち互の目(かたおちぐのめ)の刃文を焼く備前伝の特徴がよく現れていました。しかし、後期になると、おっとりとした湾れ(のたれ)が主調となった相州伝の影響も加わるようになり、これは「相伝備前」と称されているのです。
現在の本刀の姿は大磨上となっており、元来は大太刀であったと考えられています。その刃文は、肩落ち風の互の目のみならず、角互の目や丁子風の刃など変化が交じり、足・葉もよく入っており、出来が非常に優れた健全な良品です。1695年(元禄8年)には、「本阿弥光常」(ほんあみこうじょう)の代七百貫の折紙が付けられています。