徳川十五代将軍

第7代将軍/徳川家継

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歴代最年少で江戸幕府7代将軍となった「徳川家継」(とくがわいえつぐ)は、就任時わずか5歳でした。そのあとの徳川家継は、3年の将軍職を経て夭逝(ようせい:若くして死ぬこと)。徳川家継の死により、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の血統は失われてしまいました。一体なぜこのような幼すぎる将軍が擁立されることになったのか、将軍となるまでの経緯や、徳川家継の行なった政治についてご紹介します。

徳川十五代将軍徳川十五代将軍
江戸時代を語る上で欠かせない徳川十五代将軍の姿を紐解きます。

徳川家継の生い立ちと将軍になるまでの経緯

徳川家継の生い立ちと父・徳川家宣の病

徳川家継

徳川家継

1709年(宝永6年)、「徳川家継」(とくがわいえつぐ)は、江戸幕府6代将軍「徳川家宣」(とくがわいえのぶ)の四男として、側室「お喜世の方」(おきよのかた)のちの「月光院」(げっこういん)との間に生まれました。

徳川家宣の息子達はいずれも皆病弱であったため、次々と早世(そうせい:若くして死ぬこと)。

残された子供は、「鍋松」(なべまつ:のちの徳川家継)のみとなり、幼くして将軍継嗣(けいし:跡継ぎ)となったのです。

1712年(正徳2年)、父である徳川家宣が病に倒れます。原因は、インフルエンザだったと考えるのが一般的な見解。

当時のインフルエンザは、現代のようにワクチンがなかったため、死に至る病でした。

病に倒れた6代将軍・徳川家宣の遺言

徳川家継の家系図

徳川家継の家系図

一向に快癒しない自身の容態に、徳川家宣は死期を悟ります。そして、側用人(そばようにん:将軍の側近で、将軍の命を老中らに伝達する役職)であった「間部詮房」(まなべあきふさ)に、後継者についての遺言を託しました。

徳川家宣の側近「新井白石」(あらいはくせき)の自叙伝「折たく柴の記」(おりたくしばのき)には、徳川家宣は次期将軍についての遺言で、「徳川御三家の尾張藩主・徳川吉通[とくがわよしみち]とし、鍋松が成人してからのことは、徳川吉通に任せる。」というものと、「鍋松が次期将軍となるが、徳川吉通が後見役として政務を執り、もしも鍋松が成人するまでに早世すれば、徳川吉通が将軍を継ぐこととする。」という2通りの考えを示したとあります。

しかし、新井白石と間部詮房は、尾張藩主である徳川吉通が将軍になることで起きるであろう混乱を想定。徳川吉通に付いてやってくる尾張藩の家臣と、「江戸城」(えどじょう)の家臣との間で起きる揉めごとや、側用人を中心とする重臣達の立場を鑑みると、新井白石と間部詮房は、徳川吉通を江戸へ迎え入れることを避けたいと考えたのです。

しかし、そのためには、後任者を擁立しないまま鍋松を将軍にする必要がありました。幕臣のなかには、万が一鍋松の身に何かあって、世継ぎや後任もないまま早世してしまう状況を避けたいと心配する者もいましたが、そのときこそ徳川吉通を迎え入れるべきときだとして、新井白石は幕臣達を強引に説得。了承を得ることとなったのです。

7代将軍・徳川家継の早すぎる就任

元服する男子に烏帽子をかぶせるさま

元服する男子に烏帽子をかぶせるさま

徳川家宣は遺言を託したすぐあとに、51歳で亡くなりました。

しかし、次期将軍鍋松の「元服」(げんぷく:成人の儀式)をしないまま徳川家宣が亡くなってしまったため、鍋松の烏帽子親を務める人がいなくなってしまったのです。

将軍家は代々、継嗣は元服時に、父親から偏諱(へんき:貴人などの2字名にある一方の字)を授かりますが、父親である将軍がすでに亡くなっているため、諱(いみな)を頂けません。

そこで、幕府は「霊元上皇」(れいげんじょうこう)による「名字書出」(みょうじのかきだし:元服のとき、烏帽子親がその子に命名する際に、自己の実名の1字を与え、その証拠として与えた文書)を申請することとなりました。

「家継」(いえつぐ)と書かれた宸翰(しんかん:天皇の自筆文書)が京より江戸へ到着したあと、鍋松は朝廷からの使者を迎えて、元服の儀式を完了。鍋松は新たに徳川家継と名乗り、征夷大将軍に任ぜられる儀式を経て、正式に江戸幕府7代将軍・徳川家継となったのです。

父の徳川家宣が将軍になったのは48歳のときで歴代最高齢の将軍就任でしたが、徳川家継はわずか5歳で将軍職に就任し、歴代最年少の将軍となりました。なお、徳川家継は、朝廷から名字書出を賜った唯一の将軍です。

徳川家継の側近政治

前将軍・徳川家宣に取り立てられた2人の側近

徳川家継は、歴代最年少の5歳で将軍職へ就任したため、政治力はほとんどないと言っても過言ではない状況。政治は、間部詮房と新井白石の2人の側近によって主導されていました。この側近2人は、父・徳川家宣に重用されていた重臣で、将軍が徳川家継になったのちも、同じように重用されることとなったのです。

新井白石

新井白石

新井白石は、徳川家宣の侍講(じこう:君主に侍して学問を講義する人)であった学者。

もともとは5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)時代の大老「堀田正俊」(ほったまさとし)に仕えていましたが、主人が殺害され浪人していた折、朱子学者「木下順庵」(きのしたじゅんあん)に入門。木下順庵の推挙で、将軍就任前の徳川家宣に、侍講として仕官を始めました。

そののち、徳川家宣が将軍となると同時に側近として登用され、幕閣となったのです。

側用人・間部詮房は、甲府藩(こうふはん)の藩主「徳川綱重」(とくがわつなしげ)の家臣の家に生まれ、猿楽師(さるがくし:現在の能楽師のこと)の弟子であったところ、徳川綱重の息子・徳川家宣の小姓に抜擢。甲府藩内で昇進を重ねた間部詮房は、徳川家宣の将軍就任に伴って幕臣となりました。そのあとも徳川家宣に重用された間部詮房は、将軍の側用人として5万石の大名となったのです。

6代将軍・徳川家宣の時代より重用されていた2人でしたが、徳川家継が将軍に就くと、幼い将軍に代わり政治を主導。幕府の実権を握ることとなりました。

側近政治と正徳の改革

徳川家継の将軍在任期間における主な政策に、「正徳の改革」(しょうとくのかいかく)があります。これは、前将軍・徳川家宣から引き継ぐ形で行なわれた政策で、新井白石の儒学思想をもととした、文治主義(ぶんちしゅぎ:武力によらず、礼儀や法令により政治を進める主義)による財政、外交、教育など、多方面で行なわれた諸政策のこと。また、この改革が行なわれた治世を、「正徳の治」(しょうとくのち)とも呼びます。

正徳の治では、1714年(正徳4年)に、5代将軍・徳川綱吉時代に行なわれた、金・銀の含有量を減らした改鋳によるインフレを抑えるため、金・銀の含有量をもとに戻し、質の良い正徳小判(しょうとくこばん)を増やしました。こうすることで、悪貨による物価の急騰を抑える政策を取ったのです。

また、1715年(正徳5年)に「海舶互市新例」(かいはくごししんれい)を発布し、海外貿易での輸入を制限し、金・銀の流出を抑えています。さらに、教育改革にも乗り出し、庶民でも寺子屋で教育が受けられるようにするという、学問重視の文治主義政策を推し進めました。

こうして、新井白石と間部詮房は、まだ幼い徳川家綱に代わり、徳川家宣より引き継いだ政策の実現を行なっていったのです。しかしながら、儒学思想に基づいたこの政治は、実際の生活との乖離があり、成果が思うようには得られませんでした。

絵島・生島事件

1714年(正徳4年)、「絵島・生島事件」(えじま・いくしまじけん)という大奥内の勢力が覆る事件が発生します。

当時の大奥内では、6代将軍・徳川家宣の正室「天英院」(てんえいいん)派と、徳川家継の生母・月光院(お喜世の方)派の2派に勢力が分裂。徳川家継の治世では当然、生母である月光院派に権勢が傾いていました。

そんな折、月光院に仕える大年寄(大奥女中の総頭で表向きの老中に匹敵する地位)である「絵島」(えじま)が、歌舞伎役者の「生島新五郎」(いくしましんごろう)との密通を疑われ、それをきっかけに大奥の規律の乱れが発覚します。

結果、絵島は大奥を追放され、生島新五郎は島流しに。さらに、絵島の親類にも厳しい処罰が下され、大奥に出入りしていた商人達まで、合計50名近くの者が罰せられることとなりました。

そののち、大奥内では月光院派の勢力は力を弱め、天英院派が優勢となります。同時に、新井白石や間部詮房によって政権から疎外されていた他の老中ら幕閣達の、反対勢力も強まることとなりました。

この絵島・生島事件は、将軍が幼く大奥の監督が行き渡っていなかったために起こった事件であると、一説では言われています。

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徳川家継の婚約者と人柄

幼い徳川家継の婚約

当時6歳であった徳川家継には、すでに婚約者がいました。徳川家継は、徳川家宣の存命中に、正室・天英院の弟である「近衛家煕」(このえいえひろ)の娘「近衛尚子」(このえひさこ)と政略結婚の目的で婚約。のちに、2人の年齢差を気にした天英院と近衛家煕は、近衛尚子を「中御門天皇」(なかみかどてんのう)に入内させ、徳川家継と近衛尚子の婚約を、事実上破棄してしまいました。

しかし、1715年(正徳5年)、幼く弱い立場である徳川家継のうしろ盾を強化するため、天英院と月光院は、霊元上皇の皇女を迎えようと交渉。霊元上皇は、まだ2歳である皇女「八十宮」(やそのみや)の降嫁を承諾しました。

将軍としての振る舞い

江戸幕府の公式史書「徳川実紀」(とくがわじっき)には、徳川家継の人柄について、「生来聡明で、父の徳川家宣に似て情けがあり、立ち居振る舞いも優雅である」と記録されています。

公家のひとりが徳川家継に謁見をした際、公家が大きく頭を下げてお辞儀をしたのに対し、徳川家継は軽く会釈をするだけに留めました。幼いながらも将軍としての立場を理解した徳川家継の自然な振る舞いが、周囲の幕閣を驚かせ、「徳川家」(とくがわけ)も安泰であると涙させた話が残されています。

徳川家継の夭逝

徳川家継の早すぎる死

1716年(正徳6年)、3月より病に伏せていた徳川家継が、8歳で息を引き取りました。死因は風邪の悪化による急性肺炎だと考えられています。満年齢ではまだ7歳にも満たず、世継ぎもいない徳川家継の夭折で、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)から続く「徳川宗家」(とくがわそうけ)の血統は、断絶することになりました。

徳川家継を喪った新井白石と間部詮房は、8代将軍として徳川家継から「継」の偏諱を受けていた、尾張藩6代藩主「徳川継友」(とくがわつぐとも)を次の将軍候補に推薦。

しかし、紀州藩5代藩主「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が、間部詮房・新井白石に対抗する幕閣や、大奥の後押しを受け、徳川将軍家へ養子に入り8代将軍となりました。

徳川吉宗は、藩主時代に成果を上げた政策を幕政に反映させ、これまでの正徳の治を改める「享保の改革」(きょうほうのかいかく)を実施。間部詮房と新井白石は、徳川吉宗が将軍へ就任すると同時に失脚し、幕府中枢より追放されました。

徳川家継の墓

増上寺

増上寺

徳川家継の墓は、代々徳川将軍家の墓地とされる東京都港区の「三縁山広度院増上寺」(さんえんざんこうどいんぞうじょうじ)にあります。

1958年(昭和33年)から行なわれた墓所の改葬時に、徳川家継を含む歴代将軍の遺骨調査が行なわれました。

遺骨は保存状態の悪さと長い年月により、散逸(さんいつ:ばらばらになり消えること)もしくは分解され、発見できませんでしたが、残された遺髪や爪などから、徳川家継の血液型がA型だったことが判明しています。

また、徳川家の菩提寺である、愛知県岡崎市の「大樹寺」(だいじゅじ)には、歴代徳川家当主の墓所と、歴代将軍の位牌を安置。この歴代将軍の位牌は、将軍が臨終したときの身長と同じだとされています。それによると8歳で早世した徳川家継の身長は約135cmとされ、8歳にしてはかなり高い身長だったと言えます。

徳川家継の生涯

たった3年間だけ江戸幕府の将軍として在任した、歴代最年少の将軍・徳川家継。兄弟がことごとく命を落とすなか、唯一生き残った少年の命もはかないものでした。

そして、そんな幼少の将軍を拠り所とした幕府の要人達の地位も、徳川家継の命が尽きると共に瓦解。さらに、徳川秀忠より続く、徳川宗家の血統も断絶することになったのです。

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