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本多忠刻の武将・歴史人年表
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本多忠刻

本多忠刻

「本多忠刻」(ほんだただとき)は、「徳川家康」の家臣を務めていた姫路藩(現在の兵庫県姫路市)初代藩主「本多忠政」(ほんだただまさ)の長男として、1596年(文禄5年/慶長元年)に生まれました。

1601年(慶長6年)、徳川四天王のひとりであった祖父「本多忠勝」(ほんだただかつ)が、10万石で桑名(現在の三重県桑名市)に移封されたことに伴い、父と一緒に同地へ移っています。

1615年(慶長20年/元和元年)に「豊臣家」と江戸幕府が対立して起こった「大坂夏の陣」には、江戸幕府方として父と共に参陣。

同合戦における戦いのひとつ、「道明寺の戦い」(どうみょうじのたたかい)で本多忠刻は、敵の首を討ち取る武功を挙げたのです。

1616年(元和2年)、本多忠刻は、2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の娘「千姫」(せんひめ)と結婚しました。

そのきっかけとして伝わる逸話は2つあり、ひとつ目は、大坂夏の陣後に江戸から戻る「七里の渡し」(宮宿[みやしゅく:名古屋市熱田区]から桑名宿[くわなしゅく:三重県桑名市]を結ぶ海路)での船中で、容姿端麗な本多忠刻に千姫がひと目惚れしたという逸話。

もうひとつは、豊臣秀頼と政略結婚をさせられた上に、同合戦で夫・豊臣秀頼を失った千姫を気の毒に思った徳川家康が、亡くなる間際に本多忠刻のもとへ再嫁(さいか)させることを命じたという逸話です。

どちらが真実なのかは定かではありませんが、いずれにしても、本多忠刻と千姫は仲睦まじく暮らし、2人の間には、長女・勝姫(かつひめ)と長男・「幸千代」(ゆきちよ)が生まれています。

そのあと、1617年(元和3年)に本多忠刻は、父とは別に姫路新田藩(ひめじしんでんはん:姫路藩の新田分地として与えられた領地)10万石を賜って、姫路に移ったのです。

そして1621年(元和7年)には、幸千代がわずか3歳で早世します。その5年後の1626年(寛永3年)に本多忠刻は、結核が原因でこの世を去りました。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1596年(文禄5年/
慶長元年)
1
本多忠政の長男として誕生。
1601年(慶長6年) 6
父と共に桑名へ移る。
1615年(慶長20年/
元和元年)
20
大坂夏の陣における一連の戦いのひとつ、道明寺の戦いにて敵の首級を挙げる。
1616年(元和2年) 21
千姫と結婚する。
1617年(元和3年) 22
千姫の化粧料(江戸時代における嫁入りの持参金)として、10万石で姫路へ移封される。
1618年(元和4年) 23
長女・「勝姫」が誕生する。
1619年(元和5年) 24
長男・幸千代が誕生するが、3歳で夭折(ようせつ)する。
1626年(寛永3年) 31
結核によって亡くなる。

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足利義満の武将・歴史人年表

足利義満の武将・歴史人年表
足利義満 室町幕府2代将軍「足利義詮」(あしかがよしあきら)の長男として生まれた「足利義満」(あしかがよしみつ)。1368年(正平23年/応安元年)に父が没したことにより、跡を継いで将軍職に就任しています。 しかし、この時の足利義満は11歳の少年であったため、管領(かんれい)の「細川頼之」(ほそかわよりゆき)の補佐を受けて幕政に携わったのです。 1391年(元中8年/明徳2年)、「山名氏清」(やまなうじきよ)ら「山名氏」が幕府に対し、「明徳の乱」(めいとくのらん)と呼ばれる反乱を起こしますが、幕府軍が勝利を収めます。 そして足利義満は、同乱の翌年に南北両朝の合体に成功。 1394年(明徳5年/応永元年)には、嫡男「足利義持」(あしかがよしもち)に将軍職を譲り、「太政大臣」(だじょうだいじん)に任官されました。 これは、足利義満が属した「清和源氏」(せいわげんじ)において、初めてのことだったと言われています。 そのあと、足利義満は、足利義持が将軍の座に就いてからも実権を握っていましたが、1395年(応永2年)には、太政大臣を辞任して出家。 また、1397年(応永4年)に足利義満は、京都の北山に「金閣寺」(京都市北区:別称鹿苑寺[ろくおんじ])を建立しました。さらには、能楽を保護するなど、いわゆる「北山文化」の形成にも貢献したのです。加えて足利義満は、1399年(応永6年)に起こった「応永の乱」(おうえいのらん)において、強力な守護大名であった「大内義弘」(おおうちよしひろ)らを討って、「大内氏」を滅ぼしています。 そして1404年(応永11年)には、500年以上も途絶えていた明(中国)との国交を回復。「勘合貿易」(かんごうぼうえき)と称される明との貿易を正式に開始しました。こうして足利義満は、室町幕府の最盛期を築き上げていったのです。

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楠木正成の武将・歴史人年表

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楠木正成 「楠木正成」(くすのきまさしげ)は、その出自には不明な点が多くありますが、一説によると、河内国(現在の大阪府東部)で栄えた豪族の家系に生まれたと言われています。 1331年(元徳3年/元弘元年)、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)に召し出された楠木正成は、鎌倉幕府を討伐するために「赤坂城」(大阪府南河内郡)で挙兵。そのあと、「千早城」(大阪府南河内郡)を築いた楠木正成は、鎌倉幕府軍からの猛攻に耐えて籠城戦を繰り広げました。 これによって楠木正成は、諸国の反幕府勢力に蜂起を促したのです。赤坂城、及び千早城で挙げた武功が高く評価された楠木正成は、後醍醐天皇が始めた「建武の新政」のもとで、「河内守」(かわちのかみ)に任ぜられました。 さらに楠木正成は、摂津国(現在の大阪府北中部、及び兵庫県南東部)・河内国(現在の大阪府東部)・和泉国(大阪府南西部)3ヵ国の守護職にも就いています。 1335年(建武2年)に楠木正成は、後醍醐天皇に反旗を翻した「足利尊氏」を九州に敗走させましたが、その翌年に再起した足利尊氏を摂津国湊川(現在の神戸市中央区、及び兵庫区)で迎え撃って敗死しました。

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新田義貞の武将・歴史人年表

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新田義貞 「新田義貞」(にったよしさだ)はもともと、上野国(現在の群馬県)の豪族「新田氏」の惣領であった武将です。 1331年(元徳3年/元弘元年)に、96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の勢力と鎌倉幕府の間で「元弘の乱」(げんこうのらん)が勃発。 同乱で新田義貞は当初、鎌倉幕府方に付き、後醍醐天皇方の「楠木正成」(くすのきまさしげ)との包囲戦「千早城の戦い」(ちはやじょうのたたかい)に従軍しました。 しかし、その翌年に新田義貞は、同合戦の途中で帰国。その後、後醍醐天皇の皇子「護良親王」(もりよししんのう)の綸旨(りんじ:蔵人[くろうど]が天皇の意を奉じて発する命令文書)を受け、鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵します。 同幕府を裏切ることになった新田義貞でしたが、最終的には滅亡させることに成功。 この功績が高く評価された新田義貞は、後醍醐天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)下で、越後守(えちごのかみ)や上野介(こうずけのすけ)などを兼任。 同天皇から重用されるようになったのです。そのあと、「足利尊氏」(あしかがたかうじ)が建武政権に背くと、その討伐のために各地を転戦。 「箱根・竹ノ下の戦い」などに敗れた新田義貞は、後醍醐天皇の皇子「恒良親王」(つねよししんのう)、及び「尊良親王」(たかよししんのう)らを奉じて、北陸へと下りました。 「そして新田義貞は、1338年(延元3年/暦応元年)に「足利高経」(あしかがたかつね:別称斯波高経[しばたかつね])の軍勢と対立した「藤島の戦い」にて、戦死することとなったのです。

新田義貞の武将・歴史人年表

朝倉教景の武将・歴史人年表

朝倉教景の武将・歴史人年表
朝倉教景 「朝倉教景」(あさくらのりかげ:法名[朝倉宗滴])は、越前国(現在の福井県北東部)の戦国大名「朝倉氏」の家臣として活躍した武将です。 越前国の守護大名「朝倉孝景」(あさくらたかかげ:法名[英林宗雄])の八男でしたが、通称が父と同じ「小太郎」であったこと、諱(いみな)である「教景」を曽祖父などが用いていたことから、嫡男としての待遇を受けていたのではないかと推測されています。 1503年(文亀3年)に、敦賀城(福井県敦賀市)城主「朝倉景豊」(あさくらかげとよ)が、仕えていた朝倉宗家に謀反を起こしました。 このときに朝倉教景は、朝倉景豊一派に加わることを求められましたが、それを断るために出家。そして、朝倉教景は主君・朝倉貞景に対し、朝倉景豊による謀反の企てを密告します。 この功績が認められ、朝倉景豊が務めていた「敦賀郡司」の座に就くことになりました。朝倉教景はこれ以降、朝倉氏の軍務を仕切っていくことになったのです。 1506年(永正3年)には、朝倉氏と北陸一向衆の間で「九頭竜川の戦い」(くずりゅうがわのたたかい)が勃発します。 朝倉教景は、朝倉軍の総大将となって激戦を繰り広げ、最終的には夜襲を掛けることに成功。朝倉軍の勝利に大きく貢献しました。1527年(大永7年)に朝倉教景は、室町幕府12代将軍「足利義晴」(あしかがよしはる)、及び管領(かんれい)「細川高国」(ほそかわたかくに)から援軍の要請を受けて上洛します。 そして「川勝寺口の戦い」(せんじょうじぐちのたたかい)に、幕府軍として参戦。「三好元長」(みよしもとなが)率いる軍勢と対峙し、勝利を収めたのです。 そのあと、1555年(天文24年/弘治元年)には、「上杉謙信」からの呼びかけに応じて「加賀一向一揆」の討伐に参加。しかし、陣中で病に倒れたことにより、朝倉氏の本拠地・一乗谷に帰還して療養生活に入りましたが、そのまま病死してしまったのです。

朝倉教景の武将・歴史人年表

足利尊氏の武将・歴史人年表

足利尊氏の武将・歴史人年表
鎌倉幕府に続く武家政権・室町幕府を開いた「足利尊氏」(あしかがたかうじ)。96代天皇「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が鎌倉幕府打倒を掲げて挙兵した「元弘の乱」(げんこうのらん)では、幕府側に従軍します。しかし、のちに足利尊氏は、幕府を裏切って後醍醐天皇側に付きました。 そのあと、同天皇による「建武の新政」(けんむのしんせい)において、第一の功臣として忠義を尽くしたのです。そんな中、足利尊氏は、公家や天皇家にばかり目を掛ける後醍醐天皇に対し、徐々に不満を募らせていきました。最終的に足利尊氏は、同天皇に反旗を翻して「湊川の戦い」(みなとがわのたたかい)を起こします。 同合戦では、後醍醐天皇が送った「新田義貞」(にったよしさだ)、及び「楠木正成」(くすのきまさしげ)の軍勢と対峙して勝利を収めました。そのあと、足利尊氏は「光明天皇」(こうみょうてんのう)を擁立し、室町幕府を設立したのです。これに伴って後醍醐天皇は、吉野(現在の奈良県吉野郡)へと逃亡。「南朝」と呼ばれる朝廷を自ら開き、足利尊氏を中心とした「北朝」と対立することとなったのです。 1338年(延元3年/暦応元年)に足利尊氏は、室町幕府の初代征夷大将軍に就任。初めは弟「足利直義」(あしかがただよし)との二元政治を行っていました。しかし、1352年(正平7年/文和元年)には足利直義を暗殺。こうして足利尊氏は、自身への権力集中を成功させたのです。

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坂上田村麻呂の武将・歴史人年表

坂上田村麻呂の武将・歴史人年表
坂上田村麻呂 「坂上田村麻呂」(さかのうえのたむらまろ)は、平安時代初期に活躍した武将です。50代天皇「桓武天皇」(かんむてんのう)が行っていた事業のひとつである蝦夷(えみし/えぞ)討伐において、その優れた武勇を存分に発揮しました。 791年(延暦10年)に坂上田村麻呂は、「征東副使」(せいとうふくし)に任ぜられています。 そして794年(延暦13年)には、征夷大将軍「大伴弟麻呂」(おおとものおとまろ)の軍勢に加わり、蝦夷を討つことに成功したのです。 そのあと、坂上田村麻呂は、出羽国(現在の山形県、及び秋田県)の「按察使兼陸奥守」(あぜちけんむつのかみ)や「鎮守府将軍」(ちんじゅふしょうぐん)を歴任。 そして797年(延暦16年)には、遂に征夷大将軍にまで上り詰めます。801年(延暦20年)に3度目となる蝦夷討伐を実行。その翌年には「胆沢城」(いさわじょう:岩手県奥州市)を築き、当時の軍事機関であった「鎮守府」を同城に移したのです。 このように蝦夷の平定に大きく貢献した坂上田村麻呂は、810年(大同5年/弘仁元年)に起こった「薬子の変」(くすこのへん)の鎮圧でも武功を挙げ、「正三位・大納言」(しょうさんみ・だいなごん)に任ぜられました。

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勝海舟の武将・歴史人年表

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勝海舟 江戸時代末期の幕臣として、江戸無血開城という大きな功績を残した「勝海舟」(かつかいしゅう)。 1845年(弘化2年)頃より、福岡藩士「永井青崖」(ながいせいがい)のもとで蘭学を学んだあと、兵学、及び蘭学を教える私塾「氷解塾」(ひょうかいじゅく)を開いています。 そして勝海舟は、江戸幕府が設立した「長崎海軍伝習所」に1期生として入所。1860年(安政7年/万延元年)には遣米特派使節に「咸臨丸」(かんりんまる)で随行し、同船の艦長を務めたのです。 アメリカから帰国すると、勝海舟は「軍艦奉行並」に就任します。さらには、自身の弟子であった「坂本龍馬/坂本竜馬」らの助けを得て、「神戸海軍操練所」を開設。海軍軍人の育成に注力しました。 1868年(慶応4年/明治元年)に「陸軍総裁」に任命された勝海舟は、西郷隆盛との間で江戸城開城の協定を結び、大政奉還によって政権が朝廷に返上されたあとも、明治新政府と徳川将軍家の仲介役として、その手腕を発揮。 明治政府の成立以降、「海軍大輔」(かいぐんたいふ)や「参議兼海軍卿」、「外務大杼」(がいむたいじょう)などの重要ポストを歴任しました。 1899年(明治32年)に勝海舟は自宅にて病死。その際、「これでおしまい」との言葉を残して亡くなったという逸話が良く知られています。

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東郷平八郎の武将・歴史人年表

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東郷平八郎 「東郷平八郎」(とうごうへいはちろう)は、明治時代から大正時代にかけて活躍した海軍軍人です。 1863年(文久3年)に、薩摩藩とイギリス艦隊の間で勃発した「薩英戦争」(さつえいせんそう)で初陣を飾り、1868年(慶応4年/明治元年)の「戊辰戦争」では、薩摩藩(現在の鹿児島県)や長州藩(現在の山口県)を中心とした旧幕府軍に従軍しました。 そのあと、東郷平八郎は、イギリスのポーツマスへ官費留学して国際法や海軍技術などを学んでいます。この留学で得た知見を活かし、「日清戦争」や「日露戦争」では大日本帝国海軍の勝利に大きく貢献。 特に日露戦争では、当時世界最強と評されていたロシアのバルチック艦隊を「日本海海戦」において撃破し、アメリカやイギリスといった列強諸国を驚嘆させたのです。 日露戦争が終結したあと、海軍大将となった東郷平八郎は、「軍司令部長」や「軍事参議官」を歴任。 さらには、1913年(大正2年)に「元帥」(げんすい)となっただけでなく、1915年(大正4年)には、日本最高の勲章「菊花章頸飾」(きっかしょうけいしょく)を賜っています。

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沖田総司の武将・歴史人年表

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沖田総司 「新選組/新撰組」の一番隊隊長として知られる「沖田総司」(おきたそうじ)。 1844年(天保15年/弘化元年)白河藩(現在の福島県)藩士「沖田勝次郎」(おきたかつじろう)のもとに生まれましたが、父は沖田総司がわずか2歳の頃に亡くなっています。 そのあと、沖田総司は、剣術の新流派「天然理心流」(てんねんりしんりゅう)を学ぶために、新撰組のメンバー「近藤勇」(こんどういさみ)の養父であった「近藤周助」(こんどうしゅうすけ)に弟子入り。 修行を積んで、同流派の道場「試衛館」(しえいかん)の塾頭を務めるほど優れた剣技の持ち主となった沖田総司は、「天才的剣士」と称されるようになったのです。 1863年(文久3年)に近藤勇や「土方歳三」(ひじかたとしぞう)らと共に上洛を果たし、新撰組に加盟した沖田総司は、その幹部として大きな活躍を見せていました。 しかし、1868年(慶応4年/明治元年)に勃発し、他の新撰組メンバーが従軍した「鳥羽・伏見の戦い」(とば・ふしみのたたかい)には、肺病のために不参加となったのです。 沖田総司は同合戦後、江戸で療養生活を送っていました。しかし、1868年(慶応4年/明治元年)4月に、千駄ヶ谷(現在の東京都渋谷区)の植木屋・平五郎宅の納屋で亡くなったと伝えられています。

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