武将・歴史人

本多忠刻と刀

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「本多忠刻」(ほんだただとき)は、「徳川家康」の家臣で徳川四天王のひとりと呼ばれた猛者「本多忠勝」を祖父に持つ人物。誰もが振り返るほどの美男子で、徳川家康の孫「千姫」の心をも射止めました。剣術を好んで「宮本武蔵」に師事し、刀剣を数多く所持。今回は、本多忠刻の生涯と共に、本多忠刻ゆかりの刀剣をご紹介します。

本多忠刻の生涯

本多忠刻のイラスト

本多忠刻

「本多忠刻」(ほんだただとき)は、1596年(慶長元年)生まれ。

徳川四天王」のひとりとして有名な「本多忠勝」の孫で、「本多忠政」の長男です。偉丈夫で眉目秀麗、誰もが振り返る美男子だったと伝えられています。

本多忠刻は、武勇にも優れ、1615年(慶長20年)「大坂冬の陣夏の陣」に父・本多忠政と共に参戦し、夏の陣「道明寺の戦い」では敵将の首級を挙げるほど活躍しました。

この戦いで追い詰められ自刃し、滅亡に追いやられたのが「豊臣秀吉」の嫡男「豊臣秀頼」ですが、本多忠刻はのちに豊臣秀頼の正室であった「千姫」と、1616年(元和2年)に婚姻する運命になるのです。

千姫は、実は江戸幕府初代将軍「徳川家康」の孫で、2代将軍「徳川秀忠」の娘。

豊臣秀頼とは政略結婚だったので、大坂城(現在の大阪城)が落城する際に、徳川家康の命で救出されました。本多忠刻と千姫が婚姻するきっかけは、千姫が江戸へと搬送される途中、桑名の七里渡しの船から本多忠刻の姿をひと目見て、見初めたからだと言われています。

本多忠刻の父・本多忠政は、それまでの武功により150,000石を得て「姫路藩」(現在の兵庫県)藩主となりましたが、本多忠刻は父とは別に1617年(元和3年)、化粧料(結婚祝い)として100,000石を賜り、「姫路新田藩」(現在の兵庫県)藩主となっています。

このとき、千姫は20歳、本多忠刻は21歳でした。徳川家からの2人への待遇は厚く、輿入れの際は、馬500頭、お供850人の行列を従えたと言われています。本多忠刻と千姫は長女「勝姫」、長男「幸千代」と子宝に恵まれますが、幸千代は3歳で早世。

本多忠刻も1626年(寛永3年)に結核のため、31歳という若さで命を落としました。この結果、本多忠刻の弟「本多政朝」が本多家の家督を継ぐこととなったのです。

本多忠刻と日本刀

本多忠刻は刀剣好きでも有名です。2代将軍・徳川秀忠からは、結婚祝いに国宝「名物・観世正宗」(現在は東京国立博物館所蔵)を拝領。金象嵌で「忠為」(本多忠刻の初名)の所持銘が切られた一文字などの太刀も数点発見されています。

また、剣術を好み、「宮本武蔵」を召し抱えて、家臣共々師事しました。名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」(メーハク)所蔵である本多忠刻秘蔵の刀剣をご紹介します。

愛刀 太刀/銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之

「本多平八郎忠為」とは、本多忠刻のこと。平八郎は幼名、忠為は初名です。作刀したのは「包永」(かねなが)。包永は、鎌倉時代中期に活躍した大和国(現在の奈良県)の鍛冶で、手掻派の始祖となった人物です。地刃が明るく冴え、つぶらな(にえ)を表すのが特徴。

本太刀は、地鉄(じがね)が小板目肌詰み、刃寄りに柾(まさ)がかかり地沸(じにえ)付き地景(ちけい)入り地斑(じふ)風。刃文(はもん)は直刃調(すぐはちょう)に僅かに浅くのたれ、互の目(ぐのめ)、小互の目などを交え、刃縁(はぶち)細かにほつれてわずかに二重刃(にじゅうば)かかり、匂口(においぐち)明るく冴える逸品です。

千姫が夫の形見としてこの刀剣を持ち帰り、3代将軍「徳川家光」に献上し、将軍家の蔵刀となりましたが、5代将軍「徳川綱吉」が上田藩(現在の長野県上田市)藩主「松平忠周」(まつだいらただちか)に拝領。上田藩松平家に重宝として伝わっていた1振です。

太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
包永(金象嵌)
本多平八郎忠為
所持之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
本多忠刻→
千姫→徳川家光→
徳川綱吉→
松平忠周→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

愛刀 刀/無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之

本刀は、刀剣鑑定家「本阿弥光忠」(ほんあみこうちゅう)が「兼光」(かねみつ)作と極め、「本多平八郎忠為所持」と金象嵌を切った1振です。兼光とは、南北朝時代に活躍した、備前伝(現在の岡山県備前長船派兼光のこと。兼光は、刀剣史上12名しかいない最上大業物に選ばれた名工です。

本刀は、大磨上(おおすりあげ)ながらも身幅(みはば)が広く大鋒/大切先(おおきっさき)で、豪壮な姿。地鉄は小板目肌で良く詰み、地沸細かに付き、乱映り鮮やかに立ち、刃文は匂出来(においでき)で、小沸、小互の目乱れ尖り刃交じり、逆足(さかあし)や小(こあし)が入って見事です。表裏に棒樋(ぼうひ)を掻き出し、兼光らしい、品格の高さを感じます。

刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
刀 無銘 伝兼光(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
(金象嵌)
本多平八郎
忠為所持之
鑑定区分
重要美術品
刃長
71.5
所蔵・伝来
本多忠刻(忠為) →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

本多家の刀剣

本多忠勝、本多忠刻以外にも、本多家には名刀を携えた猛者が数多く存在しました。本多家から、名古屋刀剣博物館「名古屋刀剣ワールド」(メーハク)に伝わった名刀をご紹介します。

本多家の愛刀 短刀 銘 来国光(名物:塩河来国光)

本刀を所持したのは、本多忠刻の父・本多忠政です。本多忠政は桑名藩(現在の三重県)100,000石を継ぎ、姫路藩100,000石に転封。姫路城(現在の兵庫県姫路市)を修築した人物です。

本刀は、本多忠政が手にする前に、伯耆守(現在の鳥取県)「塩河国満」が所持していたことに由来して名付けたことが「享保名物帳」にも記されています。

地鉄は小板目肌よく詰み、地沸微塵に厚く付きさえ、刃文は湾れ(のたれ)調に小互の目乱れ、小沸よく付き、匂口明るく冴え、覇気のある名品。

作刀したのは、来国光です。来国光は、鎌倉時代後期にかけて活躍した、山城国(現在の京都府来派の名工。本多忠政亡きあとは、姫路藩本多家の重宝とされてきた1振です。

短刀  銘  来国光(名物塩河来国光)
短刀 銘 来国光(名物塩河来国光)
来国光
鑑定区分
重要文化財
刃長
25.6
所蔵・伝来
本多美濃守
忠政所持→
本多家伝来→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

本多家の愛刀/小太刀 銘 則房

本刀は、本多家11代「本多忠粛」(ほんだただとし)の愛刀と伝えられる1振です。本多忠粛は、江戸時代中期に活躍。本多家宗家(本多忠勝の直系)で、岡崎藩(現在の愛知県岡崎市)本多家初代藩主となった人物です。

作刀したのは、「則房」(のりふさ)。則房は、備前伝の福岡一文字派「助房」(すけふさ)の次男で、福岡近くの片山に住み、「片山一文字派」の始祖となりました。一文字の中でも華やかな丁子乱れを焼くのが特徴です。

本刀は、地鉄は小板目肌よく詰み、地沸細かに付き、乱映り立ち、刃文は、小沸できの小乱れに足・よく入る、秀作。古備前の作風を色濃く残し、優美です。

小太刀  銘  則房
小太刀 銘 則房
則房
鑑定区分
重要美術品
刃長
57.6
所蔵・伝来
本多家11代宗家・本多忠粛→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

本多家の愛刀/刀 無銘 伝倫光

本刀は、「本多忠晴」(ほんだただはる)が愛刀としていた1振です。本多忠晴は、本多忠勝の孫。つまり、本多忠勝の長男「本多忠政」の三男にあたる「本多忠義」の四男です。文武両道の名君で、相良藩(現在の静岡県牧之原市)本多家初代藩主を務めました。

作刀したのは、「倫光」(ともみつ)であると刀剣鑑定家の本阿弥光忠が極めています。倫光は、南北朝時代に活躍し、備前長船派・兼光の子または弟とされる名工です。

身幅が広く大鋒/大切先で、地鉄は小板目肌に柾目が交ってよく詰み、地沸細かに付き、映りごころがあり、刃文は匂出来、湾れ調に互の目が交じる逸品。表裏に棒樋と添樋があり、梵字が彫られているのも秀逸です。

刀  無銘  伝倫光
刀 無銘 伝倫光
無銘
鑑定区分
重要美術品
刃長
72.4
所蔵・伝来
本多弾正少弼
(本多忠晴)→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

本多忠刻と刀

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