戦国時代の姫・女武将一覧

千姫

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「千姫」(せんひめ)は、祖父が「徳川家康」、父が「徳川秀忠」という超セレブなお姫様。お姫様であったために、徳川家が将軍家になるための「駒」として利用されました。「豊臣秀頼」と政略結婚をした千姫ですが、その豊臣家は滅亡。しかし、千姫だけは救出され、そこから人生が一新します。恋もお金も欲しいものは手に入れる、強い女性に生まれ変わった千姫についてご紹介します。

千姫とは

祖父は徳川家康、父は徳川秀忠、母はお江

千姫のイラスト

千姫

千姫」(せんひめ)は、1597年(慶長2年)生まれ。祖父は、江戸幕府初代将軍となる「徳川家康」。

父は2代将軍となる「徳川秀忠」、母は「織田信長」の妹である「お市の方」と「浅井長政」の三女「お江」(おごう)のちの「崇源院」(すうげんいん)です。

徳川秀忠とお江は、7人の子どもを儲けましたが、千姫は第1子で長女。絶世の美女と言われた祖母・お市の方によく似た、美しい娘だったと言われています。

豊臣秀頼の正室となる

1598年(慶長3年)、天下人「豊臣秀吉」は、自分の死期が近いことを予感していました。

そこで、五大老の筆頭として力を認めていた徳川家康に、嫡男「豊臣秀頼」の後見人となるよう頼むのです。裏切られないよう、嫡男・豊臣秀頼と徳川家康の孫・千姫の婚姻を内約させ、豊臣家徳川家の関係を強めようとしました。そして、豊臣秀吉は自分の予感通り、同年病死したのです。

ところが豊臣秀吉の死後、豊臣家有力臣団のなかで権力争いが勃発。それが、1600年(慶長5年)「関ヶ原の戦い」です。徳川家康率いる東軍は、この戦いに勝利し、対抗していた西軍勢力の一掃に成功しました。こうして徳川家康は、1603年(慶長8年)2月、征夷大将軍に任じられ、江戸幕府を開いたのです。

しかし、豊臣秀吉の妻で豊臣秀頼の母「淀殿」(茶々:浅井長政とお市の方の長女)は、征夷大将軍になった徳川家康のことを「豊臣秀頼が成人するまでの後見人に過ぎない」、「徳川家康は豊臣秀吉との約束を守っているだけ」と考えていました。そこで、1603年(慶長8年)7月、豊臣秀吉が内約した豊臣秀頼と千姫の婚姻を行使したのです。

豊臣秀頼

豊臣秀頼

豊臣秀頼は、1593年(文禄2年)生まれ。住まいは大坂城(現在の大阪城)で、婚姻時は11歳。千姫は7歳でした。

豊臣秀頼の母・淀殿と千姫の母・お江は実の姉妹。したがって、2人は従弟関係で政略結婚でありながらも、とても仲が良かったと言われています。ただし、生涯2人の間に子どもは授かりませんでした。

1605年(慶長10年)4月、徳川家康は将軍職を辞任。徳川秀忠に征夷大将軍を譲りました。これは以後、将軍職は徳川家が世襲することを意味しています。

これに怒ったのが、淀殿です。徳川家康は、豊臣秀頼に上洛と京都での謁見を希望しましたが、淀殿が拒否。謁見すれば、豊臣秀頼が徳川家康に従ったと見なされると考えたからです。ここで、徳川家康と淀殿との間で溝が生じました。

しかし、1611年(慶長16年)、「後水尾天皇」(ごみずのおてんのう)の即位のため徳川家康が上洛。その際に、今度は豊臣秀頼から「千姫の祖父に会いたい」と言い、「二条城」(現在の京都府)にてやっと謁見が実現したのです。このとき豊臣秀頼は、19歳。身長が6尺5寸(197㎝)もある、立派なイケメンに成長していました。

この姿に脅威を感じたのが徳川家康です。もはや豊臣家に政権を戻す気が微塵もなかった徳川家康は「方広寺鐘銘事件」で難癖を付け、1614年(慶長19年)「大坂冬の陣」を起こして豊臣家に牙を剥きます。

一度は和解したものの、再び1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」が勃発。大坂城は落城し豊臣秀頼と淀殿は自害に追い込まれ、ついに豊臣家は滅亡しました。

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大坂城からの救出!

坂崎出羽守事件が起こる

徳川家に対して、夫・豊臣秀頼と淀殿の助命を何度も懇願していた千姫ですが、その願いは聞き入れられませんでした。しかし徳川家康は、孫娘の千姫だけは助けるよう命じていたのです。

実際に、大坂城から救出した人物が「坂崎直盛」(さかざきなおもり)でした。

坂崎直盛は、出羽守(現在の山形県秋田県の長官)で、「宇喜多秀家」の従兄弟。元々は宇喜多姓を名乗っていましたが、関ヶ原の戦いから徳川家康に仕えて坂崎姓を名乗り、石見国津和野(現在の島根県浜田市)30,000石を賜った人物です。徳川家康から千姫を救出するよう命じられ、その褒美として千姫との結婚を約束されたと言われています。

しかし、千姫は坂崎直盛との結婚を断固拒絶。その理由は、助けて貰ったときに坂崎直盛が負った傷を見て気持ち悪かったからとか、坂崎直盛本人との結婚ではなく、坂崎直盛が選んだ公家との縁談が嫌だったからなど、諸説あります。

とにかく千姫に拒絶され、面目を潰された坂崎直盛は、1616年(元和2年)に千姫を強奪しようと計画。しかし失敗し、自刃(あるいは処刑)となり、お御家断絶となりました。

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本多忠刻の正室となる

本多忠刻

本多忠刻

1615年(慶長20年)、徳川家康の命により大坂城から救出された千姫ですが、何とこの際、「本多忠刻」(ほんだただとき)にひと目惚れをしていたのです。

本多忠刻は、1596年(慶長元年)生まれ。徳川家康の重臣、「本多忠勝」の嫡男です。

父の本多忠勝は、生涯57戦を経験しながらも負けなしだったと言われた猛者ですが、本多忠刻も本多忠勝と共に本隊の指揮を執る強者。しかも、誰もが振り返る美男子と言われていました。

そんな本多忠刻の姿を見て恋に落ちた千姫。それは、関東へ移動する道すがら、桑名(現在の三重県桑名市)の七里渡しの船中だったと言われています。

この淡い恋の話を聞いた徳川家康は、徳川将軍家のために最初の夫を死に追いやり、辛い目に合わせた孫娘・千姫に対して申し訳ない気持ちがあったためか、千姫の恋を猛烈に応援。千姫と本多忠刻の婚姻をあっという間にまとめたのです。

1616年(元和2年)、千姫は本多忠刻と結婚。千姫は20歳、本多忠刻は19歳でした。自分の意志を貫く強さを持った千姫。さらに千姫は、徳川家康から結婚に当たり、化粧料として播磨姫路(現在の兵庫県)に100,000石(現在価値にして100億円)を頂戴します。

なお、父・徳川秀忠は「千姫は豊臣秀頼と共に自害するべきだった」と冷ややかでした。

千姫の再婚生活と最期

ひと目惚れの恋を実らせて本多忠刻と結婚し、新たな人生をスタートさせた千姫。美男・美女カップルと持て囃され、姫路城(兵庫県姫路市)に武蔵野御殿と化粧櫓を新築。1男1女に恵まれて、幸せなひと時を過ごします。

しかし、1621年(元和7年)に長男「幸千代」(こうちよ)が3歳にして早世。さらに、1626年(寛永3年)に最愛の夫・本多忠刻が、結核のため30歳という若さで死去するのです。こうして、千姫の幸せな再婚生活は約10年にして終わりました。

これは、豊臣家の呪いではないかとも言われ、千姫は江戸に戻って出家。尼となり「天樹院」(てんじゅいん)と称しました。なお、千姫は本多家を出る際、夫・本多忠刻の形見として、本多忠刻の愛刀「太刀 銘 包永[金象嵌]本多平八郎忠為所持之」を譲り受けています。

太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
太刀 銘 包永(金象嵌)本多平八郎忠為所持之
包永(金象嵌)
本多平八郎忠為
所持之
鑑定区分
特別重要刀剣
刃長
71.8
所蔵・伝来
本多忠刻→
千姫→徳川家光→
徳川綱吉→
松平忠周→
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

出家後、千姫(天樹院)は弟の3代将軍「徳川家光」に厚遇され、竹橋御殿(現在の東京都)で長女「勝姫」(かつひめ)と共に暮らし始めます。成長した勝姫は、岡山藩主「池田光正」(いけだみつまさ)の正室となりました。

東慶寺・本堂

東慶寺・本堂

千姫は大奥で、弟・徳川家光の側室が産んだ子どもの世話をしたり、夫と離縁したい女性を支援するための縁切寺「東慶寺」(とうけいじ:現在の神奈川県鎌倉市)に援助するなど女性のために活躍したりし、1666年(寛文6年)に70歳で死去しました。

墓所は、「伝通院」(でんづういん:東京都文京区)、「弘経寺」(ぐぎょうじ:茨城県常総市)、「知恩院」(ちおんいん:京都市東山区)の3ヵ所に納められています。

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千姫ゆかりの地

伝通院

伝通院

伝通院

東京都にある伝通院は、1415年(応永22年)に開山したお寺。

当初は「寿経寺」(じゅきょうじ)と呼ばれていましたが、徳川家康の母「於大の方」(おだいのかた)の菩提寺となり、於大の方の法名と同じ伝通院と呼ばれるようになりました。

千姫の他、徳川家光の次男「亀松」など、徳川家ゆかりの人々が多く眠っています。

弘経寺

弘経寺

弘経寺

弘経寺は、1414年(応永21年)創業。1629年(寛永6年)に10世「照誉了学上人」(しょうよりょうがくしょうにん)が再建する際、千姫が多大な寄進をし、千姫の菩提寺となりました。

毎年、千姫の誕生日(4月11日)前後には、「天樹祭」(てんじゅさい)を開催。

千姫を描いた姿絵が公開され、華やかなコンサートなどが行なわれます。

知恩院

知恩院

知恩院

知恩院は、徳川家が信仰する「浄土宗」の総本山です。「千姫の墓」には、千姫の爪が納められていると言われています。

千姫の墓の傍にあるのは、「濡髪大明神」(ぬれがみだいみょうじん)という縁結びの神社。

濡髪大明神にお参りすれば、豊臣秀頼、本多忠刻という歴史的イケメンに愛された、千姫の恋愛運にあやかれるかもしれません。

千姫

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