朝倉義景
朝倉義景(あさくらよしかげ)は、越前国(現在の福井県北東部)の守護大名です。
朝倉家の最盛期に生まれ、父・朝倉孝景が没すると、わずか16歳の頃に同家の当主となります。
当初は朝倉家が代々頭を悩まされていた、加賀国(現在の石川県南部)における一向一揆(いっこういっき)の征伐に明け暮れていた朝倉義景。
そのあと一向一揆との和睦を結ぶと、室町幕府15代将軍・足利義昭(あしかがよしあき)の上洛が契機となり、やがて織田信長と対立するように。
反織田信長連合、いわゆる「信長包囲網」の一員として織田勢を相手に奮戦するも朝倉家の重臣・朝倉景鏡(あさくらかげあきら)が織田方に寝返ったことで、41歳の若さで非業の死を遂げました。
そんな朝倉義景は武将のみならず文化人の側面があったことでも知られていた人物。自身の居城・一乗谷城(いちじょうだにじょう:福井県福井市)の城下町に、洗練された京風文化を積極的に取り入れ、往時の繁栄ぶりから現在では「北陸の小京都」と称されています。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1533年(天文2年) | 1歳 |
朝倉家10代当主・朝倉孝景(あさくらたかかげ)の長男として誕生。幼名は「長夜叉」(ながやしゃ)。
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1548年(天文17年) | 16歳 |
父が亡くなったため朝倉家の家督を継ぎ、名前を「朝倉延景」(あさくらのぶかげ)に改める。
一乗谷城の城主となる。 |
1552年(天文21年) | 20歳 | |
1555年(天文24年/ 弘治元年) |
23歳 |
政務や軍事面において、朝倉義景を補佐していた「朝倉宗滴/教景」(あさくらそうてき/のりかげ)が亡くなったため、自身で政務などに当たるようになる。
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1559年(永禄2年) | 27歳 |
従四位下(じゅしいのげ)の位階を賜る。
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1566年(永禄9年) | 34歳 | |
1567年(永禄10年) | 35歳 |
加賀一向一揆との和解を成立させる。
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1568年(永禄11年) | 36歳 |
足利義昭が織田信長に奉じられて上洛し、将軍の座に就く。そのあと朝倉義景は織田信長とも対立するようになる。
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1570年(永禄13年/ 元亀元年) |
38歳 | |
1573年(元亀4年/ 天正元年) |
41歳 |