貴族社会から武家社会への過渡期となった平安時代後期に起こる、「保元の乱」(ほうげんのらん)や「壇ノ浦の戦い」(だんのうらのたたかい)など、源氏や平氏、朝廷を巻き込む大きな合戦は、様々な物語の題材になっています。それが「平家物語」(へいけものがたり)や「平治物語」(へいじものがたり)、「保元物語」(ほうげんものがたり)です。今回紹介する「鵜丸」(うまる)と言う刀剣は保元物語に登場します。
保元物語は、鎌倉時代前期の軍記物語で、作者は不明です。
登場人物やことの顛末は実際の史実に基づいていますが、長年様々な人物によって語られるなかで、事実と異なる脚色を加えられたと言われています。
物語は名前の通り、1156年(保元元年)に京都で起こった保元の乱を題材に書かれました。
この戦いは、鳥羽院(とばいん)の崩御(ほうぎょ:天皇や皇后、皇太后、太皇太后が亡くなること)をきっかけに、その子どもである崇徳院(すとくいん)と後白河天皇(ごしらかわてんのう)のそれぞれの派閥が起こした皇位継承争いです。
そこには、源氏や平氏といった武士達が加担しており、保元の乱は、のちの武家政権成立につながる重要な戦であったとされています。物語のなかでは、源為朝(みなもとのためとも)の勇ましく戦う姿が描かれています。
皇位継承争いの背景
皇位を争うことになった崇徳院と後白河天皇は、鳥羽院とその皇后・藤原璋子(ふじわらのしょうし)の間に生まれた兄弟です。
崇徳院は幼くして天皇の位に就いたため、その実権は父である鳥羽院が握っていました。鳥羽院は自分自身も5歳という年齢で天皇になっており、祖父であり養父であった白河院(しらかわいん)の存命中は、常にその影響下にありました。
白河院が崩御すると、鳥羽院は白河院の養女であった妻・藤原璋子に代わり、藤原得子(ふじわらのとくし)を寵愛(ちょうあい:特別に大切にして愛すること)するようになります。
藤原得子との間に男子が生まれると、鳥羽院は一度天皇の座に就いた崇徳院に譲位(じょうい:存命中に位を譲ること)を迫り、わずか3歳の息子を近衛天皇(このえてんのう)として即位させますが、近衛天皇は病弱であったため、17歳で早世してしまいました。
次の天皇候補には崇徳院の子が有力とされるなか、崇徳院に権力を掌握されることを恐れた藤原得子の政治的策略により、幼いながらすでに出家が決まっていた雅仁親王(まさひとしんのう:のちの後白河天皇)の子に白羽の矢が立ちます。
しかしその子はまだ幼かったため、雅仁親王が中継ぎの形で即位して後白河天皇となりました。保元物語のなかで、崇徳院は「御寵愛という理由で天皇の位を取られてしまい、深い恨みを持って過ごしていたところに、近衛天皇が崩御された。今度は息子を帝位に就けるはずが、意外なことに弟に先を越されて残念だ」と、不満を漏らしています。
父である鳥羽院が崩御すると、均衡は崩れ、ついに保元の乱が勃発します。
鵜丸を授けられる源為義
源為義(みなもとのためよし)は、保元の乱で崇徳院側に付いた武将です。崇徳院が源為義を傘下にした場面は、保元物語の「新院[崇徳院]源為義を召さるる事」に描かれています。
不安定な情勢のなかで身の危険を感じた崇徳院は、数人の家臣を連れて、それまでいた鳥羽の田中殿(京都府京都市)から、妹・統子内親王(むねこないしんのう)の御所(ごしょ:天皇をはじめとした、特に位の高い貴人の邸宅)である白河殿(しらかわどの:京都府京都市)に身を寄せました。
白河殿に入った崇徳院らは、その夜に六条にいる源為義を呼びますが、「味方する決心が付かない」と言い放ち、やって来ません。そこで藤原教長(ふじわらののりなが)を遣わせると、源為義はこう言いました。
「私はかねてより帝にお仕えしていますが、実戦に出たことは2度しかありません。1度目は14歳のとき、大伯父の美濃守義綱(みののかみよしつな)が朝敵(ちょうてき:朝廷の敵)となって近江の甲賀山に立てこもっていたのを攻め、合戦では各所で勝利し、美濃守義綱を投降させました。2度目は18歳のとき、宣旨(せんじ:天皇や太政官の命令を伝達する文書)をいただいて、比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ:滋賀県大津市)を攻めようとしていた奈良の僧侶達を追い返しました。他に騒乱が起こったときは、若い者を派遣して鎮圧させていたため、私自身は武の道に通じていないのです。私の嫡子である源義朝(みなもとよしとも)は、坂東(関東地方)育ちで弓矢を極め、源義朝に付き従う者達は皆関東の強者達です。しかし源義朝は、後白河天皇に呼ばれて参上しています。源義朝の他にも子どもは多数いますが、大将を任せられる者はいません。けれど八男の源為朝(みなもとのためとも)は九州で育ち、弓矢や刀の腕も立ちます」。
さらに源為義は「源為朝は乱暴者だったために、豊後国(大分県)の尾張権守家遠(おわりごんのかみいえとお)を後見に、13歳の10月から15歳の3月まで大きな戦を20余り経験させ、城攻めや戦略を学ばせたところ、3年で九州の武士達を従えるようになり、惣追捕使(そうついぶし:治安維持にあたる役職)に就いて6年が経ちました。その間、源為朝の狼藉(ろうぜき:乱暴なふるまい)のせいで私は役職を解任されたこともあり、推薦するにはおこがましいですが、ちょうど源為朝はここへ来ているので、私の代わりに参上させましょう」と続けました。
源為義が大将を辞退した理由は他にもありました。夢のなかで先祖代々受け継ぎ守ってきた8領の鎧が、風に吹かれて散り散りになるという不吉なお告げがあったのです。
それに対して、教長は「夢で見たからといって、本当に武具が壊れることがあるか。あなたの言い分は、崇徳院のもとに参上して申し上げるべきこと。この場で返答するのはいかがなものでしょうか」と苦言を呈しました。
源為義は「恐れ多いことだ」と言い、6人の子ども達を連れて参上。崇徳院はそれを評価して、美濃国青柳庄(みのこくあおやぎしょう:岐阜県大垣市)と近江国伊庭庄(おうみこくいばしょう:滋賀県東近江市)を源為義に与え、判官代(ほうがんだい:上皇に仕える役人)に任じました。
そして崇徳院は「上北面(じょうほくめん:院の御所を警備する詰所)に控えていなさい。また源為義の息子の源頼賢(みなもとのよりかた)は、蔵人(くろうど:朝廷の機密文書の保管や伝達、宮中の行事や事務を行なう者)に任じよう」と言いました。
これが、崇徳院が源為義を配下に置いた経緯です。保元物語は語られるうちに改作され、新たな記述が追加されているものがあります。「流布本」(るふぼん)と呼ばれる、比較的最近成立した文献の中では、鵜丸の由来について、見出しも内容に合わせ「新院源為義を召さるる事附たり鵜丸の事」と書かれています。
元々鵜丸は、白河院の手元にあったとされています。白河院が神泉苑(しんせんえん:京都府京都市)に出かけ、宴遊ののちに「鵜飼」に遭遇します。
すると1羽の鵜丸が、2~3尺(60~90cm)の物を何度も咥えては落とし、咥えては落としていたのです。何かと思い、咥え上げた物を見ると、それは長覆輪(ながふくりん:柄頭から石突きまでを金や銀で飾った物)の太刀でした。
白河院は、その太刀を鵜丸と名付けて持ち帰ったとされています。そして鵜丸は、白河院から鳥羽院へ、鳥羽院から崇徳院へ受け継がれ、源為義の手に渡りました。
その後、鵜丸が保元の乱で活躍したのかどうか、具体的な記述はありません。保元の乱は後白河天皇派に軍配が上がり、崇徳院派の源為義は、敵方として戦った源義朝に首を切られて亡くなりました。
代々天皇に受け継がれた由緒正しき名刀鵜丸。鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」(あずまかがみ)によると、戦乱の中で一時失われながらも、九州で戦後処理をしていた源範頼(みなもとののりより)によって発見され、再び朝廷に献上されました。
しかし現在の所在は不明であり、その姿を観ることが叶わない刀剣のひとつです。