平安時代
保元・平治の乱
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「源平合戦」とは、狭義では1180年(治承4年)~1185年(元暦2年)の「治承・寿永の乱」を指し、広義では、1156年(保元元年)の「保元の乱」から1192年(建久3年)の源頼朝の征夷大将軍就任までを指します。 具体的には、源氏が歴史に登場し、鎌倉幕府を開いて武士の頂点に上り詰めるまでです。 源氏と平家を中心に日本各地で起こった大規模な内乱である「治承・寿永の乱」を軸に、「保元の乱」での源平の台頭から、最終的に源氏が勝利するところまで、広義の「源平合戦」についてご紹介します。

保元の乱 ~源平合戦のプロローグ~

源頼朝vs平清盛

源頼朝vs平清盛

「源平合戦」のきっかけとなった1156年(保元元年)の「保元の乱」は、崇徳上皇と後白河天皇が皇位継承をめぐる争いに、源氏と平氏の武力を利用した政変です。のちに争うことになる源義朝と平清盛は、この時点では味方として後白河天皇方に付き勝利。その結果、武士が力を持つようになり、のちの武家政権へと繋がることとなります。

藤原氏が政治の実権を長く独占し続けた「摂関政治」や、天皇が譲位後も権勢を振るった「院政」が力を失い、時代が新たな勢力を求めていました。そこへ台頭してきたのが、源氏や平氏などの武家勢力だったのです。

義朝と清盛にとって、保元の乱は立身出世のきっかけとなった戦いではありますが、崇徳上皇方に付いた身内と敵対することになり、義朝は父や弟たちを、清盛は叔父を自ら処刑するという悲しい結果となりました。

平治の乱 ~源氏 VS 平家のはじまり~

保元の乱でともに勝者となった源頼朝と平清盛が政権を争って1159年(平治元年)12月に戦ったのが「平治の乱」です。

なぜ平治の乱は起きたのか?

源義経

源義経

平治の乱の原因には諸説ありますが、従来の見解では保元の乱後の義朝と清盛の恩賞に差があり、義朝が不満を募らせたため起こしたというもの。

その元凶となっていたのが、二条天皇に譲位した後白河上皇の側近・信西(しんぜい:号は円空)の清盛に対する厚遇です。信西を敵とみなした義朝が、藤原信頼ら反・信西派と結びついて起こしたのが平治の乱だと言われています。

1159年(平治元年)12月9日、清盛が熊野詣で京都を留守にしている間に、義朝と信頼は兵を挙げて信西を殺害。天皇と上皇を幽閉して実権を握りますが、京での騒ぎを聞きつけて慌てて戻った清盛が、天皇と上皇を奪い返すことに成功し、形勢逆転。この戦は圧倒的な兵力の差で平家の勝利に終わったのでした。

源義朝は、一度は逃げたものの部下に裏切られ、尾張で殺害されます。次男の朝長も戦死。長男・義平は潜伏後、京に戻り、清盛暗殺を謀って失敗、処刑されます。三男で嫡子(ちゃくし:正室の長男で跡継ぎ)の頼朝は、清盛の継母の助命嘆願を受けて伊豆へ島流しに。今若と乙若、牛若(のちの源義経)ら兄弟は、それぞれ寺に預けられました。

狂王・後白河上皇 ~誰が信西を殺したのか?~

さて、これには異説があります。それは、信西の殺害を命じたのは、他ならぬ後白河上皇だという説です。

異説・誰が信西を殺したのか?

この当時の朝廷は様々な対立構造があり、背景は複雑でした。源氏と平氏以外にも、後白河上皇派と二条天皇派、後白河上皇派の中でも信西と信頼も対立を深めていきます。

後白河院政下で信西は実権を握り、対立する後白河派と二条天皇派双方に通じており、さらに上皇や天皇を操って政権を我が物にしようとしていました。そんな信西に、後白河上皇は次第に危機感を抱くようになります。

もともと信西は、後白河上皇の父・鳥羽法皇の側近だったとも言われています。鳥羽法皇が後継者として指名したのは、後白河上皇の皇子の二条天皇で、後白河上皇は、二条天皇が成人するまでの中継ぎとして即位したに過ぎなかったのです。

鳥羽法皇の側近だった信西は、法皇の生前の意向を守る役目を負っています。そのため後白河上皇は、いずれは信西によって自分の院政が終了させられて、二条天皇の親政が始まることを恐れ、信西を排除しようと考えたのではないか、とする説です。

後白河上皇の狙いは外れ、平治の乱の結果、信西・信頼という2人の側近を失い、後白河派は壊滅してしまいます。やがて二条天皇の親政が始まり、上皇は政務から排除されますが、ある意味しぶといとも言える後白河上皇は、ここで終わりはしませんでした。

息子の二条天皇が1165年(永方元年)、23歳の若さで亡くなると、二条天皇の皇子、つまりは孫の六条天皇が2歳で即位しますが、六条天皇はまだ幼少な上、母の身分が低く、政権は安定しませんでした。そこに付け込んで、平清盛と手を結び、院政を再開してしまうのです。

今様狂いの大天狗は本当に愚帝だったのか?

「保元・平治の乱」の中心にいながら生き残り、譲位後も二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽の5代に亘って実権を握り続け「大天狗」との異名のある後白河上皇とは、どのような人物だったのでしょうか。

後白河上皇は、鳥羽法皇と中宮・藤原璋子の間に生まれた第4皇子で、非常に高貴な血筋でしたが、皇位継承とは無縁の気楽な立場だったので、「今様狂い」(いまようぐるい)と称される程毎日踊り歌い、日々享楽的に過ごしていました。

「今様」とは、現代で言う流行歌で、庶民の楽しみであったことから、後白河の御所には下々の者まで集まっていたのです。後白河上皇は、今様好きが高じて「梁塵秘抄」(りょうじんひしょう)を編纂するなど、文化的に大きな足跡を残しています。

しかし、周りの評判はひどい物でした。保元の乱で戦った同母兄・崇徳上皇は、後白河上皇を「文にあらず、武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評。養育係だった信西も「和漢の間比類少なき暗主」(日本と中国を探しても他にはいない程の愚か者)と評した程。父の鳥羽法皇までが「天皇になる器量ではない」として、後白河上皇を飛ばしてその第1皇子の二条天皇を指名したのです。二条天皇は、父である後白河上皇とは違い優れた人物で、後白河上皇とは生涯対立したままでした。

では、後白河上皇は、本当に愚帝だったのでしょうか。

保元の乱で勝利した後白河上皇は、国政改革のために信西を抜擢。有能な信西は、全国の荘園整理や内裏再建などを行ない、政権の強化に尽力していきます。また、本来中継ぎとして即位したにもかかわらず、三十数年、天皇の座に君臨し続けた手腕はお見事。

源頼朝や平清盛を陰で操り、「源平合戦」の影の主役と言っていい程の存在感です。武家勢力から朝廷を守って、最後まで武士に屈しなかった気骨のある天皇だったとも言えます。鎌倉幕府成立後は、一度は悪化した幕府との関係を修復し、協調関係を続けました。そうした後白河上皇の政治手腕については、一定の評価がなされています。

平家にあらずんば人にあらず ~平家の栄華~

高倉天皇

高倉天皇

平治の乱で源氏を倒した平家には、もはや敵なし。栄華を極めていきます。平清盛は政治力もあり、最高権力者・後白河法皇ともうまく付き合い、牽制しつつ、どんどん高い地位に上り詰めていくのです。やがて、その権力を確かなものにするために、かつて藤原氏が行なったように自分の娘を天皇に入内させ、娘の産んだ皇子を天皇にして外戚関係を築くことを画策するようになりました。

1168年(仁安3年)2月19日、後白河法皇と清盛は、わずか在位2年8ヵ月で、5歳の六条天皇を退位させます。

六条上皇は、天皇即位も上皇になったのも歴代最年少です。そのあとには、後白河上皇の第7皇子で、清盛の義理の甥に当たる高倉天皇を擁立。六条上皇にとっては、叔父への皇位継承という不自然なものでした。

1172年(承安2年)、平清盛と時子の娘の平徳子(のちの建礼門院)が高倉天皇に入内、中宮に迎えられます。清盛にとっては、義理の甥と娘の結婚です。これで皇子が生まれ、立太子となれば、平家の地位はますます安泰になると思われました。

鹿ヶ谷の陰謀

しかし、清盛のあまりに急な出世と平家のすさまじい程の発展は、あちこちに亀裂を生んでいきます。家柄を何より重んじる公家社会において、それ程高い家柄ではない清盛が、あれよあれよと言う間に政治のトップである太政大臣にまで上り詰め、巨大な権力を持つようになったのです。旧来の名門と呼ばれる貴族たちには当然、不満が高まっていきます。また、同じ武士の間からも平家を批判する声が出てきました。

「一門にあらざらん者はみな人非人なるべし」(平家にあらずんば人にあらず)これは、清盛の正妻・時子の弟、平時忠の言葉です。時忠は平氏でも清盛とはまた別系統の家系の生まれですが、姉の夫・清盛が時の人となり、栄進していきます。

この「人非人」とは「人にあらず」というよりは、「宮中で立身出世できない人」程度の意味だという説が現在では有力です。それでも「わが一門でなくては出世できない」と言っているので、おごり高ぶっていたことは確かでした。有名なこの言葉は、1174年(承安4年)に、時忠が従二位に叙せられた頃に言ったとされています。

そんな中、1177年(安元3年)6月、平家を倒そうとする陰謀事件「鹿ヶ谷の陰謀」が起こります。鹿ヶ谷の山荘に後白河法皇に近い貴族や僧侶がたびたび集まって、平氏政権を打倒する相談をしており、後白河自身もその陰謀に加担していたようです。

この事件には諸説あり、単に後白河法皇の勢力を弱らせたい清盛のでっち上げだったのではないかとも言われています。この時点では、後白河法皇にお咎めはありませんでしたが、この事件で、後白河法皇と清盛の間の不和は決定的になるのです。

治承三年の政変

1178年(治承2年)には、中宮・徳子に皇子(のちの安徳天皇)が誕生、翌月には早々に皇太子になります。皇太子の側近から後白河院派は排除され、平家一門と親平氏派で固められました。

こうしてさらに後白河上皇と清盛の対立が深まり、1179年(治承3年)11月、清盛は兵を集め京都を制圧し、クーデターを起こします。敗れた後白河上皇は幽閉状態になり、高倉天皇自ら政務を執りますが、それもわずかな期間のことでした。

翌1180年(治承4年)2月、平清盛の孫に当たる安徳天皇に皇位を譲ると、平氏の傀儡(かいらい)としての高倉院政開始。さらに、高倉上皇はまもなく病に倒れ、翌1181年(治承5年)1月14日、21歳で亡くなってしまいます。

それに続いて1181年(治承5年)2月には平清盛も亡くなりますが、嫡男の重盛が先に病没していたことから、他に政務を執る者がなく、後白河上皇の院政が復活するのです。

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