全国の大名庭園

関東地方の大名庭園
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関東地方の大名庭園 関東地方の大名庭園
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かつて日本全国で最も多く大名庭園が集まっていた地方が、江戸を中心とした関東地方です。地形を活かして造られた大名庭園が多く、敷地面積も広大で、それぞれ独自性に富んでいます。現在まで関東地方に残る大名庭園「楽山園」(らくさんえん)、「駐日イタリア大使館」(ちゅうにちいたりあたいしかん)、「肥後細川庭園」(ひごほそかわていえん)、「清澄庭園」(きよすみていえん)の4ヵ所を見てみましょう。

楽山園(群馬県甘楽町)

群馬県唯一の大名庭園である楽山園は、江戸時代初期に造園されました。群馬県南西部を治めていた「小幡藩」(おばたはん)の藩邸に隣接し、1621年(元和7年)に「織田信長」の次男である「織田信雄」(おだのぶかつ)が手がけたのが起源。様式は池泉回遊式庭園(ちせんかいゆうしきていえん)ですが、戦国時代の書院造庭園から大名庭園へと移りゆく過渡期の庭園としても知られています。なお、近代に入ってからは荒廃し、復元されたのは国の名勝に指定された2000年(平成12年)です。2012年(平成24年)に一般公開され、現在に至っています。

楽山園の特徴は、借景の巧みさです。「熊倉山」(くまくらやま)や「紅葉山」(もみじやま)など、遠近の稜線を借景として導入。約7,200坪と広大な敷地を活かした起伏のある地形も、借景との連続性や景観の広がりを強調しています。また、中心となる「混明池」(こんめいいけ)の「汀線」(ていせん:池と陸の境界線)には、大小様々な護岸石組を配置。その周囲には、「いろは48石」と呼ばれる48個の景石や「割栗石」(わりぐりいし:岩石を砕いた小塊状の石)で仕上げた「州浜」(すはま:玉石や白砂などで緩やかに見せた護岸)、「滝石組」(たきいわぐみ:滝を模した石組)なども見られます。楽山園がある甘楽町は古くから石材の産出地だったため、個性的な石組が多用されました。

織田家は、織田信長の時代から茶道とのかかわりが深い一族で、その影響が庭園にも反映されています。例えば、築山の上に建てることで眺望の良さが際立つ「梅の茶屋」(うめのちゃや)や、全国的にも珍しい五角形の茶屋「腰掛茶屋」(こしかけちゃや)は、楽山園ならではの意匠です。

その他、楽山園に隣接した藩邸跡地では、昔藩邸が建っていた場所に部屋や廊下の位置が色分けして示されている他、「拾九間長屋」(じゅうきゅうけんながや)では、藩邸と楽山園の一部をジオラマで再現。庭園とあわせて見学すると、当時の姿を知ることができます。

織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光
織田有楽斎(長益)と国宝・有楽来国光にまつわるエピソードをまとめました。

駐日イタリア大使館(東京都港区)

東京都心にある駐日イタリア大使館にはもともと、愛媛県松山市周辺を治めていた「伊予松山藩」(いよまつやまはん)の藩邸が建っていました。明治時代に払い下げられ、4代・6代内閣総理大臣「松方正義」(まつかたまさよし)の住居となります。その際、洋風建築などが建てられたものの、大名庭園はそのまま残されました。作庭を行ったのは、安土桃山時代から江戸時代初期を生きた僧侶「沢庵宗彭」(たくあんそうほう)だと言われています。

その後、1945年(昭和20年)の「東京大空襲」で大使館の建物などが失われ、一時期庭園は荒廃。そののち、近代日本庭園の先駆者「小川治兵衛」(おがわじへえ)の教えを受けた甥「岩城亘太郎」(いわきせんたろう)が、1965年(昭和40年)に改修しました。池泉回遊式庭園としてよみがえり、現在も江戸時代の趣が楽しめます。

特に、江戸時代の汀線を残す池泉は複数の築山に囲まれ、サクラやアジサイなど四季の花々を植栽。また、「忠臣蔵」(ちゅうしんぐら)で知られる47人の「赤穂浪士」(あこうろうし)のうち、中心人物のひとりであった「堀部安兵衛」(ほりべやすべえ)ら10人が切腹したのもこの地です。園内には、日本語とイタリア語で10人を偲んだ石碑も立っています。

庭園は大使館に併設されているため、通常は非公開です。不定期で公開されることもあるため、東京都港区の公式HPで公開日を確認し、予約を取ってから訪れましょう。

肥後細川庭園(東京都文京区)

肥後細川庭園

肥後細川庭園

肥後細川庭園は、「熊本藩」(くまもとはん:現在の熊本県熊本市)の藩主・細川家の「下屋敷」(しもやしき:別邸として使用された大名屋敷)が置かれた地にあります。作庭時期は定かではありませんが、1842~1853年(天保13年~嘉永6年)の間に細川家が造園したとする説が有力です。明治時代以降も細川家の邸宅として利用されましたが、「第二次世界大戦」後はたびたび所有者が変わり、1960年(昭和35年)に東京都が購入。1961年(昭和36年)に「新江戸川公園」(しんえどがわこうえん)として開園され、2017年(平成29年)に現在の名称となりました。

庭園は神田川に面した台地「目白台」(めじろだい)の縁辺部にあり、樹木が生い茂る斜面と、池泉を中心とした低地からなる立体的な構造です。園内には高低差を活かして3つの滝が流れ、園内に清涼な趣を添えています。苑路は斜面と低地で風情が異なり、特に斜面の苑路では、地形に沿って尾根道のように苑路が続き、大名庭園でありながら野趣に富んだ景観が楽しめるのです。苑路の先には見晴らしに優れた展望台もあり、広く池泉を眺めることができます。

低地部分は池泉を中心に苑路が整備されており、水際に設けられた「礼拝石」(れいはいせき)周辺からは、池泉越しに鬱蒼と茂る木々を見渡すことが可能。また、池泉から半島状に突き出した場所に「船着石」(ふねつきいし)が配置され、池泉回遊式庭園でありながら「池泉舟遊式庭園」(ちせんしゅうゆうしきていえん)の様式も含むのです。その他、斜面には「遣水」(やりみず:池泉に流れ込む細い水路)などがあり、平安時代から続く伝統的な意匠が点在しています。

清澄庭園(東京都江東区)

三菱財閥の創業者「岩崎弥太郎」(いわさきやたろう)が、1878年(明治11年)に大名庭園を改修して造り上げたのが清澄庭園です。もともと「下総国」(しもうさのくに:現在の千葉県北部・茨城県南西部)の「関宿藩」(せきやどはん)を治めていた「久世家」(くぜけ)の屋敷が置かれていましたが、明治時代に岩崎弥太郎が一帯の土地を丸ごと取得。その際、青年期から興味を持っていた作庭に取りかかり、「回遊式林泉庭園」(かいゆうしきりんせんていえん)が誕生しました。竣工後も修築がたびたび行われ、現在の姿になったのは岩崎家の2代目当主「岩崎弥之助」(いわさきやのすけ)の時代だと言われています。

しかし、1923年(大正12年)に起こった「関東大震災」で被災。その際に避難場所になったことを契機として、清澄庭園は大名庭園から公共施設へと変化しました。泉水を貯木場とし、復興拠点として開放したのです。その後、1932年(昭和7年)には都立庭園として開園し、第二次世界大戦後の1979年(昭和54年)には東京都の名勝に指定されました。

清澄庭園の特徴のひとつが、全国から集められた珍しい石材が多用されていることです。海運で財をなした岩崎家は、水運網を駆使して名石を収集。「伊予青石」(いよあおいし)による池泉内の立石や、築山にあしらわれた富士山の溶岩、「紀州青石」(きしゅうあおいし)で組まれた「荒磯」(ありそ:水際の荒々しい磯場)などが園内に点在しています。また、苑路にも珍しい石材が用いられ、石製の「八ッ橋」(やつはし:複数の板を組み合わせたジグザグの橋)で構成された「磯渡り」(いそわたり)をはじめ、船着石や飛石も重厚。園内の奇岩珍石は約60種類にのぼるとも言われています。

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