歴史上の人物と日本刀

織田有楽斎(織田長益)と短刀「有楽来国光」

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織田有楽斎(おだうらくさい)は織田信長の弟で、本名は織田長益(おだながます)と言います。武将として合戦に参戦し、大草城や深志城の城主になるほどの手腕を発揮。しかし、温厚な性格だった織田有楽斎(織田長益)は茶道に励むのでした。
「本能寺の変」で織田信長が自害したのち、織田有楽斎(織田長益)は豊臣秀吉に仕え、茶人として頭角を現します。ついには「わび茶」の完成者・千利休の高弟「利休十哲」に数えられるまでになり、武家茶道「有楽流」を確立します。さらには織田有楽斎(織田長益)の屋敷があったとされる町に「有楽町」(東京都千代田区)という名まで付けられました。
幾度も合戦に参戦しながらも、茶人として生きた織田有楽斎(織田長益)。
織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康の三英傑に仕えるなど波乱に満ちた織田有楽斎(織田長益)の人物像に迫ると共に、彼が愛用した刀剣・日本刀「有楽来国光」(うらくらいくにみつ)についてご紹介します。

織田有楽斎(織田長益)は織田信長の末弟

織田有楽斎(織田長益)の出生から青年時代

織田有楽斎(織田長益)

織田有楽斎(織田長益)

織田有楽斎(織田長益)」は、1547年(天文16年)生まれ。幼名は「源五」(げんご)。父は尾張清洲城主(現在の愛知県)、織田家三奉行の「織田信秀」(おだのぶひで)です。

織田信秀は子だくさんで、12男10女を授かりました。3男は継室「土田御前」(つちだごぜん)との子「織田信長」で、11男は側室のひとり(名前は不詳)との子「織田有楽斎(織田長益)」と言われています。つまり、2人は異母兄弟で、年齢は13歳離れていました。

1551年(天文20年)、織田有楽斎(織田長益)が4歳のときに、父・織田信秀が死去。織田信秀の長男「織田信広」(のぶひろ)と次男「織田秀俊」(ひでとし)は母が側室だったため家督相続権がなく、3男・織田信長が17歳で家督を継ぐことになったのです。

ところが、母・土田御前は「うつけ」と呼ばれる織田信長をひどく嫌い、4男「織田信勝」(おだのぶかつ:母は継室・土田御前)を寵愛。そんな織田信勝が頭角を現しはじめ、織田信長に抵抗、ついに反乱を起こしたのです。

そこで織田信長は、1557年(弘治3年)に織田信勝を暗殺。このとき織田有楽斎(織田長益)は10歳でした。腹違いではない、本当の弟を容赦なく殺してしまう兄・織田信長を、織田有楽斎(織田長益)は非常に恐れたことと思います。

そんな織田有楽斎(織田長益)は、とても大人しい性格と言われ、病弱な子どもとして育ちました。初陣は15歳、1561年(永禄4年)です。織田信長の美濃攻め「森部の戦い」に参戦し勝利しますが、清洲城に戻る途中、何でもない場所で落馬して負傷。織田信長をたいへん落胆させたと言われています。以降は、武人としては期待されず、病弱を理由にあまり参戦しませんでした。

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織田信忠軍で一念発起!

織田信忠

織田信忠

ところが、1572年(元亀3年)、織田有楽斎(織田長益)が25歳のときに、織田信長の長男「織田信忠」が15歳で元服。すると織田有楽斎(織田長益)は心を入れ替えます。織田信忠は、織田有楽斎(織田長益)にとってかわいい甥。織田信忠の旗下(きか:直属)として、織田信忠軍に加わりました。

織田信忠の初陣は、1572年(元亀3年)の「小谷城の戦い」。近江小谷城を攻撃し、「浅井長政」(あざいながまさ:織田信長の妹・お市が妻)を滅亡させます。その後も、織田信忠軍は1575年(天正3年)の「長篠の戦い」に従軍し勝利。同年、織田信忠は織田信長に織田家の家督を譲られます。

1580年(天正8年)には甲州征伐で「武田勝頼」を滅ぼし、恵林寺の「快川紹喜」(かいせんじょうき:臨済宗妙心寺派の僧)を焼き殺すなど、織田信長も認めるほど、とにかく強く、負け知らずでした。

大草城

大草城

この織田信忠軍の活躍ぶりを見ると、織田有楽斎(織田長益)の名前は陰に隠れてしまっていますが、参謀としてかなり有能だったことが分かります。

その証拠に、織田有楽斎(織田長益)は1574年(天正2年)、尾張国知多郡(現在の愛知県知多市)を与えられ、「大草城」城主に。

1582年(天正10年)2月の武田家滅亡後は、深志城(ふかしじょう:現在の長野県松本市)も与えられるなど、恩賞を得ています。幼少の頃の腰抜けぶりは、武功で頭角を現すと兄弟でも殺されてしまうと考えた、織田有楽斎(織田長益)なりの防衛策だったのかもしれません。

そこに、1582年(天正10年)6月2日、あの「本能寺の変」が起こるのです。織田有楽斎(織田長益)は、織田信長の長男・織田信忠と共に、本能寺から徒歩1時間ほどにある「妙覚寺」に滞在。

明智光秀」謀反を知り、織田信長自害の報告を受けると、明智光秀を討つため織田信忠と共に二条城へ向かいます。しかし、織田信忠は追い込まれて自害。生き延びた織田有楽斎(織田長益)は、織田信長の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)に仕えるようになったのです。

織田長益が有楽斎と名乗った理由

茶の道を究めた理由とは?

幼少の織田有楽斎(織田長益)は、父・織田信秀の重臣、家老の「平手政秀」(ひらてまさひで)の屋敷で多くを過ごしたと言われています。平手政秀と言えば、織田信長の傅役(かしずきやく:お守役)で有名ですが、織田有楽斎(織田長益)の傅役も任されたと考えられています。

平手政秀は、武道はもちろん茶道や和歌にも通じた文化人で、織田信長には「武家の習い」を、織田有楽斎(織田長益)には「参謀の習い」(幕僚として、作戦に参与し補佐すること)を教えたと言われているのです。そのカリキュラムのひとつが、茶道でした。

しかし、織田有楽斎(織田長益)が6歳の1553年(天文22年)に、平手政秀は自害。理由は、織田信長があまりにも平手政秀の言うことを聞き入れないのを悲観したからだと言われています。実は、織田信長の母は土田御前ではなく、この平手政秀の娘とも言われているのです。そうすると、平手政秀は織田信長の本当の祖父。本当の孫なのに、大うつけに育ててしまったとは。平手政秀が自害したくなった気持ちも分からないでもありません。

しかし、織田信長は大うつけではありませんでした。織田信長は平手政秀をきちんと供養。やがて、家臣の子息を人質として側に置き、「優秀な人材」の育成を始めるのです。武術だけでなく、文武両道。しかも、その子の持つ才能を見つけて伸ばすという育成です。織田有楽斎(織田長益)は、平手政秀から習っていた茶道の道を見出されました。

利休十哲と呼ばれるまで

茶道の茶器

茶道の茶器

織田信長にとって茶道とは、決して「道楽」ではありません。茶道は、政治に通じる利用価値の高いもの。茶会への招待は武士としてのステータス。茶器は土地に代わる恩賞として、意味を持つことになるのです。

1575年(天正3年)、織田信長は京都・妙覚寺で茶会を開きます。その茶頭を務めたのが、「千利休」(せんのりきゅう)。千利休は、侘び茶の創始者である「村田珠光」(むらたじゅこう)を慕って侘び茶の境地を確立した「武野紹鴎」(たけのじょうおう)の弟子で、侘び茶を完成した人物です。

織田信長の死後、織田有楽斎(織田長益)は豊臣秀吉に仕えるようになり、その豊臣秀吉の面前で千利休から台子の相伝を受け、千利休の高弟「利休十哲」(りきゅうじってつ)のひとりと呼ばれるようになりました。

武家茶道「有楽流」を創始!

そんな織田有楽斎(織田長益)は、1588年(天正16年)に豊臣姓を下賜。また、織田有楽斎(織田長益)の姪である茶々(淀殿:母はお市)が豊臣秀吉に嫁ぎ、1590年(天正18年)に豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゅう:話し相手)にも抜擢。同年、43歳で剃髪します。

織田信長の弟という宿命で生まれて、楽な人生ではなかったからと、当初は「無楽斎」(むらくさい)と名乗ろうとしました。しかし、豊臣秀吉に「あなたの人生は無楽ではないよ、有楽にせよ」と命じられて、「有楽斎」にしたと言われています。

そして1593年(文禄2年)、茶々(淀殿)は織田有楽斎(織田長益)にとってのさらなる宿命、名刀「有楽来国光」と出会わせてくれた大甥「豊臣秀頼」(とよとみひでより)を出産するのです。

1598年(慶長3年)に豊臣秀吉が死去すると、今度は徳川家康に仕えるようになり、1600年(慶長5年)の「関ヶ原の戦い」では、東軍として参戦。その後はまた、大甥(豊臣秀吉と茶々の息子)の豊臣秀頼に仕えました。

茶室「如庵」

茶室「如庵」

1614年(慶長19年)「大坂冬の陣」では、豊臣秀頼側で和議交渉にあたりましたが、1615年(慶長20年)「大坂夏の陣」が起こる前に退去。京都に隠居して趣味に興じ、武家茶道「有楽流」(うらくりゅう)を創始します。

1618年(元和4年)、京都建仁寺の正伝院に、茶室「如庵」(じょあん:現在は国宝。愛知県犬山市にある有楽苑に移設)を建立。1621年(元和7年)に75歳で亡くなるまで、茶人として天寿を全うしました。

織田有楽斎(織田長益)の愛刀「有楽来国光」

有楽来国光という名前の由来は?

ツバキの花「有楽」

ツバキの花「有楽」

有楽来国光(うらくらいくにみつ)の名は、織田有楽斎(織田長益)が所持した来国光作刀の刀剣・日本刀に由来。これは、織田有楽斎(織田長益)が大甥の豊臣秀頼から拝領した短刀です。

織田有楽斎(織田長益)にはカリスマ性があったようで、この他に、諸説ありますが、織田有楽斎(織田長益)の愛したツバキの花にも「有楽」(うらく)、屋敷があった土地にも「有楽町」(ゆうらくちょう:現在の東京都千代田区)という名前が付けられています。

本短刀を作刀したのは、来国光。来派の開祖「国光」の孫と言われる人物で、鎌倉時代末期に、山城国(現在の京都市)で活躍した名工で、豪壮で覇気がある作風が特徴です。

本短刀は、1930年(昭和5年)に国宝に指定された、優麗の美を醸す1振。身幅が広く、堂々とした体配で、刃文互の目交じりの大丁子乱れ。地鉄は流麗精細な小板目肌で、差し表に素剣が彫られており、豪壮。荘厳な気迫に満ち溢れています。

「享保名物帳」にも所載され、織田有楽斎(織田長益)所持後は、本阿弥光甫が取次ぎ、加賀百万石の前田家へと伝来しました。

短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
短刀 銘 来国光(名物 有楽来国光)
来国光
鑑定区分
国宝
刃長
27.7
所蔵・伝来
豊臣秀頼 →
織田有楽斎 →
刀剣ワールド財団
〔 東建コーポレーション 〕

織田有楽斎(織田長益)と短刀「有楽来国光」

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