鎌倉幕府を樹立した源頼朝の死後、政権は鎌倉幕府将軍を支える「御家人」同士の間で争われます。それを征したのが、源頼朝の正室「北条政子」の実家である「北条氏」。北条氏の当主は鎌倉幕府将軍の補佐職「執権」として、代々実権を握りました。北条氏は朝廷にも干渉するだけでなく、地方における荘園経営にも着手します。こうして、荘園の管理者である地頭は、これまでの支配者であった朝廷・貴族層の力を跳ね除け、次第に力を蓄えていったのです。
北条政子
有力な御家人達の間で、特に勢力を強めたのが、源頼朝の正室「北条政子」(ほうじょうまさこ)の実家である、北条氏です。
1203年(建仁3年)に源頼家が病に倒れると、北条政子の父である「北条時政」(ほうじょうときまさ)は、源頼家の弟「源実朝」(みなもとのさねとも)を後継者に任命し、自身は「政所」(まんどころ:財務・政務を行う機関)と「侍所」(さむらいどころ:軍事・警察機関)の別当(べっとう:機関の長)となって、鎌倉幕府将軍の補佐を名目に幕政の主導権を握りました。
この補佐職は「執権」(しっけん)と呼ばれ、北条時政の嫡男「北条義時」(ほうじょうよしとき)をはじめとする、北条氏の当主へ代々受け継がれていくのです。
鎌倉幕府が着々と勢力を強める一方で、京の朝廷では「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう:82代「後鳥羽天皇」の譲位後の尊号)が、朝廷による権力の立て直しを図ろうと動き出します。分散していた広大な皇室の荘園を支配して経済的基盤を固めるとともに、新たに「西面の武士」(さいめんのぶし)を配置して軍事力を高めるなど尽力しました。
そういった状況のなかで起きたのが、1219年(承久元年)の源実朝の暗殺。後鳥羽上皇は、かねて源実朝と通じていたため、この事件をきっかけに朝廷と鎌倉幕府の関係性は一層険悪化してしまいます。そして、1221年(承久3年)に後鳥羽上皇は諸国の武士を引き連れて、鎌倉幕府2代執権・北条義時に戦いを仕掛けるものの敗北。
これが「承久の乱」(じょうきゅうのらん)であり、鎌倉幕府の権力が朝廷を上回った戦いでもありました。その後、鎌倉幕府は京に「六波羅探題」(ろくはらたんだい)を配置して朝廷の監視を徹底するとともに、京都内外の警備や西国統轄の役目を与えます。また、後鳥羽上皇方の貴族・武士の所領3,000ヵ所ほどを没収し、功績のあった御家人をその地の地頭に任命。
この地頭を「新補地頭」(しんぽじとう)と呼び、新補地頭の給与基準について定めた法が「新補率法」(しんぽりっぽう)とされます。こうして、それまで朝廷の支配下にあった畿内及び西国の荘園・公領も鎌倉幕府の手中に入り、朝廷と鎌倉幕府の二元的な支配体制は大きく変化。鎌倉幕府は、皇位の継承や朝廷の方針にも介入していきます。
北条泰時
承久の乱後、鎌倉幕府による政治は北条義時に次いで3代執権となった「北条泰時」(ほうじょうやすとき)によって、新たな局面を迎えるのです。
まず、北条泰時は執権の補佐役として「連署」(れんしょ)を設け、北条氏内の有力者をこれに任命しました。また、11人の御家人からなる「評定衆」(ひょうじょうしゅう)を設置。これには有力な御家人や政務の知見を持つ御家人を当てて鎌倉幕府の政務等を任せ、合議(ごうぎ:意志を総合して決定を行うこと)を主体とした行政組織の構築を図ります。
また、北条泰時は武士社会において新たな規範を設ける必要があると考え、1232年(貞永元年)に「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)51ヵ条を制定。守護・地頭の任務や権限について細かく定め、紛争を公平に裁く基準を記した武家法で、制定時の元号から「貞永式目」(じょうえいしきもく)とも呼ばれます。
この御成敗式目は鎌倉の勢力範囲に適用され、制定当初は朝廷・荘園領主の支配下では効力を持っていませんでした。しかし、鎌倉幕府の勢力拡大に比例する形で、この御成敗式目の効力も朝廷・荘園領主の支配下に及ぶようになっていくのです。その後、執権職を北条泰時の孫「北条時頼」(ほうじょうときより)が継承すると、執権政治はさらなる発展を遂げます。
1247年(宝治元年)には、有力御家人「三浦泰村」(みうらやすむら)を討ち、朝廷に対して政治の刷新を要求。朝廷では「後嵯峨上皇」(ごさがじょうこう:88代「後嵯峨天皇」の譲位後の尊号)のもとに、「院の評定衆」(いんのひょうじょうしゅう:院政を補佐する機関)が設置されます。
さらに、北条時頼は新たに鎌倉幕府内に訴訟・裁判の専門機関である「引付衆」(ひきつけしゅう)を置きました。なお、1252年(建長4年)に鎌倉幕府5代将軍「藤原頼嗣」(ふじわらのよりつぐ)が京へ追放されると、後嵯峨上皇の皇子「宗尊親王」(むねたかしんのう)を鎌倉幕府6代将軍として迎えます。以降、皇族による鎌倉幕府将軍が4代続くのです。
流鏑馬
鎌倉時代の武士は先祖由来の領地を拠点とし、河川近くに堀・塀に囲まれた館(やかた)を構えて生活していました。館の内部や周辺には、国衙・荘園領主へ年貢等を納める必要のない佃(つくだ)や門田(かどた)、正作(しょうさく)などの直営地を設けて、下人や所領内の農民に耕作させ、自身は管理者として所領を支配。
農民から徴収した年貢を国衙や荘園領主へ納め、加徴米(かちょうまい:年貢とは別に徴税した米)などを収入として得ていました。
所領の相続に関して基盤となっていたのが、一族の子弟に所領を分配する「分割相続」です。新たな分家は宗家(本家)の命令に従って活動範囲を広げていき、この本家と分家の集団は「一門・一家」、宗家の首長は「惣領」(そうりょう)と呼ばれました。
惣領は生活や戦において統率力を持ち、鎌倉幕府への軍役を「庶子」(しょし:惣領以外の一族の者)達に割りあてることも重要な役割。このように惣領が庶子を率いる武士団のあり方を「惣領制」と呼び、この惣領制をもとに鎌倉幕府は御家人達を統制していきます。
なお、この頃は武家における女性の地位が比較的高く、所領の相続時にも分配の対象となりました。実際に軍事活動を行うことはありませんでしたが、女性が地頭・御家人になる事例も少なくなかったとされています。ちなみに、武士の生活においては武芸の修練を重視。
疾走する馬に乗りながら弓矢を放つ「流鏑馬」(やぶさめ)や馬上から犬を標的として弓を射る「犬追物」(いぬおうもの)、馬上から的に向かって矢を放つ「笠懸」(かさがけ)、鹿・猪などが生息する狩場を多人数で取り囲み、獲物を追いつめて射止める「巻狩」(まきがり)などの訓練が日課とされました。
また、日々の生活のなかで「武家の習」(ぶけのならい)や「兵の道」(つわもののみち)といった武士独自の思想が生まれ、これらは後世における「武士道」の祖となります。
鎌倉幕府の権力が大きくなるにつれて、荘園を管理していた地頭の勢力も強大になっていきました。武士達は支配権の拡大を目標に活動していたことから、荘園・公領の領主達との間でたびたび紛争を起こします。
特に、1221年(承久3年)に勃発した承久の乱を経て鎌倉幕府による支配が強まると、東国出身の武士達が、畿内・西国の地頭に任命されるようになったため、現地の支配権をめぐって紛争が激化。鎌倉幕府が執権政治において、特に裁判制度の確立に尽力したのは、こうした紛争を公正に裁き、迅速に鎮静化させることが目的だったのです。
また、地頭の支配権が拡大するなか、荘園領主への年貢の未納といった不当な動きをする地頭も出てきます。荘園・公領の領主達が、年貢の未納を鎌倉幕府に訴えたところ、公正な判断によって荘園領主側が勝訴する事例も多く見られました。
しかし、地頭の影響力は時と共に増すばかりで、抑制することは徐々に困難に。そこで、荘園領主達は地頭に荘園管理のすべてをまかせ、一定額の年貢納入のみ支払わせる「地頭請所」(じとううけしょ)の契約を結び、年貢未納問題の解決を目指しました。
また、地頭と荘園領主が土地を分け合い、支配権を認め合う「下地中分」(したじちゅうぶん)も行われるようになります。こうした地頭請所や下地中分によって、地頭である武士の土地支配が広がっていき、荘園の支配権は荘園領主から地頭へと移っていくのです。