本脇差を制作したのは、「源清麿」。本名は山浦環(やまうらたまき)と言い、武術家で兵学者の「窪田清音」(くぼたすがね)に入門しました。源清麿は、独特の互の目乱れ(ぐのめみだれ)を得意とし、「江戸三作」、「四谷正宗」などと呼ばれ、天才として世間から絶賛を浴びたのです。
しかし、42歳の若さで自害。酒好きで健康を損ね、作刀がままならないのを悲観してのことだったと言われています。このため、源清麿が生涯で鍛えた日本刀はわずか130振。はじめは「内蔵助環」(くらのすけたまき)、のちに「正行」(まさゆき)、1846年(弘化3年)に、師である清音から1字を賜り「清麿」と銘を切っています。
本脇差は、清麿に改名した年に作刀され、銘が切られた貴重な1振。互の目乱れに丁子交じり、地刃の出来がよく、湯走り、砂流しが入るなど、躍動感が見事です。