「肥後守藤原輝広」(初代)は、美濃国(現在の岐阜県南部)出身。関鍛冶「兼常」(かねつね)の末孫として生まれ、のちに埋忠派の始祖「埋忠明寿」(うめただみょうじゅ)に学んだ名工です。
作風は、湾れ(のたれ)・直刃(すぐは)調で美濃風。晩年は、沸(にえ)が強く浅い湾れ刃なのが特徴でした。
尾張国(現在の愛知県西半部)の名将「福島正則」に仕え、正則の移封と共に安芸国(現在の広島県)へ。正則の死後は、広島藩浅野家に仕えました。
輝広(初代)の現存刀は、打刀、短刀、薙刀などを含めて20点にも満たない貴重なもの。中でも薙刀の出来栄えは秀逸と言われています。
本薙刀は、板目肌が流れて、柾ごころとなり、地沸よくつき、冴えるもの。刃文は、小湾れ連れ、互の目、尖り刃など交り、足・葉(よう)よく入っています。輝広晩年の特徴がよく表れた傑作です。