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明治時代
かのうただのぶ げんぺいがっせんがそうふく 狩野忠信 源平合戦画双幅 /ホームメイト

左右で1組の双幅(そうふく)となっている本掛け軸は、左側が「源義経」(みなもとのよしつね)、右側が「源頼義」(みなもとのよりよし)を描いています。
源義経、源頼義は共に、日本の中世において、平家と勢力を争い合った武家の「源氏」を代表する武将。源頼義は、源義経から5代さかのぼった人物で、「源氏」のなかでも中核である「河内源氏」(かわちげんじ)の棟梁です。
右の画中に観られる源頼義は、1028年(長元元年)、朝廷から命を下された「平忠常の乱」(たいらのただつねのらん)の鎮圧へと向かい、困難に遭遇しています。平忠常の拠点が、大河の向こう岸に見えるのを確認し、源頼義はためらいを見せている場面です。
ところが、父である「源頼信」(みなもとのよりのぶ)は、迷わずに飛び込んだ大河を軍馬に乗って渡ろうとして、拠点攻略への意気込みを示しました。
この場面ののち、戦況は源氏に優勢となり、源頼義・源頼信父子は平忠常に勝利を収めます。源頼義は、戦勝を京都の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)で祈願しました。勝利を手にした結果、源頼義は、石清水八幡宮を源氏の氏神として祀ります。
1051年(永承6年)の「前九年の役」(ぜんくねんのえき)でも、鎮圧に出発する前、源頼義は、戦勝を石清水八幡宮に祈りました。源頼義は、石清水八幡宮を源氏の氏神としてだけでなく、武功や必勝の神としても崇敬の対象とします。
遠征の結果は勝利がもたらされ、石清水八幡宮はのちに源氏一門の守り神としてだけでなく、多くの人々が敬愛する対象となりました。
左の絵に登場する源義経の姿は、「源平合戦」での「屋島の戦い」の一幕。屋島の対岸に位置する牟礼高松(むれたかまつ)の地に立ち、平家との決戦に挑もうと、これから戦場となるであろう屋島の海を源義経が眺めている場面です。海の沖には、赤い旗印を掲げた平家の軍船が数隻見えます。
源義経が屋島の戦いに臨む前、先人の源頼義と同様に、勝利を引き寄せようと自らの武運を祈願して、石清水八幡宮へと参詣に訪れた姿が、想像できるはずです。
本掛け軸を描いた「狩野忠信」(かのうただのぶ)は、1864年(元治元年)生まれで愛知県出身。本掛け軸では、風景を淡い色彩と共に繊細な筆遣いで描写しているのに対し、華やかな甲冑(鎧兜)を身に付けた武将たちは、濃い色合いで画中に浮かび上がるように映し出されています。
