「帝室技芸員」(ていしつぎげいいん)とは、明治時代に日本美術・工芸の保護を奨励する目的で定められた「帝室技芸員制度」により任命された美術家のこと。技芸員という名前の通り、刀工だけでなく、金工や漆工、日本画家、彫刻家なども任命されています。第二次世界大戦後、この帝室技芸員制度は廃止されたため、帝室技芸員に任命された刀工は「月山貞一(初代)」と「宮本包則」の2名だけでした。
こちらでは、刀鍛冶の分野で類まれなる才能を発揮した、帝室技芸員の刀工「月山貞一(初代)」と「宮本包則」についてご紹介。生い立ちや刀工としての修行時代などのエピソード、功績、制作した刀剣(日本刀)の情報をご覧頂けます。刀剣(日本刀)のデータや刀工逸話から現代刀の名工をお楽しみ下さい。
「月山貞一」(がっさんさだかず)は1836年(天保7年)、近江国(現在の滋賀県)で塚本家の子として誕生。7歳のときに大阪で活躍していた刀匠「月山貞吉」(がっさんさだよし)の養子となりました。
11歳から刀工の修業を始めた貞一の上達はめざましく、1851年(嘉永4年)16歳のときに「月山貞吉造之嫡子貞一十六歳ニ而彫之、嘉永四年八月吉日」と銘のある平造りの脇差を作刀。鍔(つば)に滝不動(滝と不動明王を配する日本の伝統的な構図)が彫られたこの脇差の完成度は高く、貞一に作刀の才能があったことが見て取れます。
明治に入り1876年(明治9年)に廃刀令が施行されると、日本刀の需要が激減。多くの職人が転業を余儀なくされる中、貞一は作刀一筋に生き、1906年(明治39年)当時の刀匠として最高の名誉であった「帝室技芸員」に任命されました。
帝室技芸員となり宮内省御用刀匠となった貞一は、愛刀家として名高い明治天皇の軍刀をはじめ、皇族や著名人の刀剣を作刀し、刀匠界にその名を残します。
貞一の作風は、全体としては豪快な造込みの物が多く、「綾杉肌」(あやすぎはだ)と呼ばれる大きく波を打ったような形状の鍛肌(鍛錬によりできる地鉄の模様)を得意としました。
また、刀身彫刻の名人としても知られ、濃厚で緻密な彫物を刀身に施す「月山彫り」という技法を大成させています。
1906年(明治39年)、月山貞一とともに刀匠として初めて帝室技芸員に認定された宮本包則(みやもとかねのり 本名:志賀彦)は、1830年(天保元年)、伯耆国(ほうきのくに)大柿(現:鳥取県倉吉市)に生まれました。志賀彦は幼少期より近所の刀匠の家を訪ねては、刀剣にまつわる話を聞くことを好みました。
1851年(嘉永4年)、22歳になった志賀彦は刀匠を志し、備前国長船(現:岡山県瀬戸内市)に赴き、刀匠「横山祐包」(よこやますけかね)の門下となります。祐包の下で備前伝の技法を修得した志賀彦は、師より「包」の名を授けられ「宮本包則」と名乗るようになります。
刀匠となった包則は、鳥取藩お抱え刀匠の職を経て、京都に鍛冶場を設け、尊王攘夷を掲げて討幕を志す志士達のために作刀を行いました。
そして、朝廷の重鎮であった有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)から厚遇を受け、1867年(慶応3年)に能登守(のとのかみ)を受領。戊辰戦争に従軍したのち、明治天皇の即位のために作刀し、以降三代の天皇の守り刀を手掛け、1886年(明治19年)には伊勢神宮式年祭の宝刀を作刀するなど、1926年(大正15年)に97歳でこの世を去るまで、精力的に作刀活動を続けました。