どうする家康に関連する人物

糸姫
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糸姫

糸姫

「糸姫」は、1571年(元亀2年)に「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ:別名・蜂須賀小六[はちすかころく])の次女として誕生します。

蜂須賀正勝は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家老(かろう:重臣)であったことから、糸姫自身も豊臣秀吉と深いかかわりがありました。

まず豊臣秀吉の養女となり、そのあと豊臣秀吉が重用していた「黒田孝高」(くろだよしたか:別名:黒田官兵衛[くろだかんべえ])の息子「黒田長政」(くろだながまさ)のもとへ、正室として嫁ぎます。

当時、黒田孝高は糸姫の父・蜂須賀正勝と共に家臣として重要な存在。そのため、この結婚には黒田家と蜂須賀家の繋がりをより強固にしたいという豊臣秀吉の思惑があったと考えられているのです。

黒田長政と糸姫の間には娘の「菊」(きく:のちに黒田家の家臣・井上庸名[いのうえもちな]へ嫁ぐ)が誕生。しかし、1598年(慶長3年)に2人は離縁。その理由は、「徳川家康」(とくがわいえやす)と同盟を結んだ黒田長政に、徳川家康の養女「栄姫」(えいひめ)との縁談が持ち上がったため。また、糸姫に男児が生まれなかったためという説もあります。

離縁させられた糸姫は、そののち自身の兄「蜂須賀家政」(はちすかいえまさ)が領主を務める阿波国(あわのくに:現在の徳島県)へ行き、1645年(正保2年)に亡くなりました。

糸姫を一方的に離縁した黒田長政は、そののち「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)で大きな成果を挙げますが、この糸姫との離縁により蜂須賀家との間に因縁が生じてしまったのです。この両家の険悪な関係は、江戸時代中期頃まで続いたと言われています。

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小姫

小姫
「小姫」(おひめ)は、「織田信長」(おだのぶなが)の次男「織田信雄」(おだのぶかつ)の長女です。1585年(天正13年)頃に誕生。生後間もなく「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の養女となり、5歳になると、のちに江戸幕府2代将軍となる「徳川秀忠」(とくがわひでただ)と婚約。

小姫

糸姫

糸姫
「糸姫」は、1571年(元亀2年)に「蜂須賀正勝」(はちすかまさかつ:別名・蜂須賀小六[はちすかころく])の次女として誕生します。蜂須賀正勝は「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の家老(かろう:重臣)であったことから、糸姫自身も豊臣秀吉と深いかかわりがありました。

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生駒親正

生駒親正
「織田信長」(おだのぶなが)による「美濃攻め」(みのぜめ)にも加わった「生駒親正」(いこまちかまさ)は、多くの戦に加わり活躍した武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)の「三中老」(さんちゅうろう:重臣らの意見が合わないときの仲裁役)のひとりでもあり、豊臣秀吉が朝鮮出兵をした「文禄の役」(ぶんろくのえき)では朝鮮半島へ渡っています。さらに生駒家は「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)の際、親子がそれぞれ東軍と西軍に分かれたことで、「徳川家康」(とくがわいえやす)が勝利してからも家禄(かろく:給与)を減らすことなく乗り切りました。巧妙な策略家もあった生駒親正について紹介します。

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中村一氏

中村一氏
「中村一氏」(なかむらかずうじ)は戦国時代に大健闘するも、あまり名前が知られていない武将です。「豊臣秀吉」(とよとみひでよし)に仕えていましたが、「関ヶ原の戦い」(せきがはらのたたかい)に参加できなかった上、嫡男も若くして死去してしまい、一族が途絶えてしまったことがその理由。しかし、複数の城主となった経歴があり、合戦の記録が絵巻物に描かれるなど武将としては能力の高い人物でした。中村一氏がどのような人生を送ったのか、活躍の逸話なども踏まえて解説します。

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堀尾吉晴

堀尾吉晴
「堀尾吉晴」(ほりおよしはる)は、「織田信長」・「豊臣秀吉」・「徳川家康」という3人の天下人に仕え、重用された戦国大名です。通称を「茂助」(もすけ)と言い、その柔和な容姿から普段は「仏の茂助」と呼ばれていましたが、ひとたび戦場に出ると獅子奮迅の働きを見せたことから、「鬼茂助」とも呼ばれました。堀尾吉晴の生涯と逸話についてご紹介します。

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西郡局(蓮葉院)

西郡局(蓮葉院)
「西郡局」(にしのこおりのつぼね)は、「徳川家康」の側室となった女性です。「蓮葉院」(れんよういん)という別名でも知られています。今川家(いまがわけ)に従属する「上ノ郷城」(かみのごうじょう:愛知県蒲郡市)の城主「鵜殿長持」(うどのながもち)の娘として、1548年(天文17年)に誕生。

西郡局(蓮葉院)

西郷局(竜泉院)

西郷局(竜泉院)
「西郷局」(さいごうのつぼね)は、江戸幕府2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の生母。西郷局は最初の夫と死別したのち、「徳川家康」の側室として迎え入れられ、尽くします。しかし、側室となってからわずか十数年後、幼い子どもを残して亡くなってしまったのです。周囲の侍女・家臣にも分け隔てなく接し、弱者を保護した西郷局の死は多くの人々に惜しまれました。西郷局の生涯とその人柄、周囲へ及ぼした影響について解説します。

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於竹(良雲院)

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「於竹」(おたけ)は、「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。院号(いんごう:戒名)は「良雲院」(りょううんいん)です。甲斐武田家(かいたけだけ)家臣「市川昌永」(いちかわまさなが)の娘であったと言われていますが、出自に謎が多く定かではありません。

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下山殿(妙真院)

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「下山殿」(しもやまどの)は、江戸幕府初代将軍「徳川家康」(とくがわいえやす)の側室であった女性のひとりです。「お都摩の方」(おつまのかた)とも呼ばれた下山殿は、1565年(永禄8年)に武田家(たけだけ)の「武田信玄」(たけだしんげん)に仕える家臣「秋山虎康」(あきやまとらやす)の娘として生まれました。

下山殿(妙真院)

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