「明治天皇」は、1882年(明治15年)に下賜した「軍人勅諭」(ぐんじんちょくゆ)や、数多くの「御製」(ぎょせい:天皇や皇族が書いたり作ったりした文章、詩歌、絵画)を通じて、武士道の大切さを臣民(しんみん:明治憲法下における国民)に伝えようと努めました。陸軍大将「乃木希典」(のぎまれすけ)は、明治天皇が重んじた武士道精神を承継。1905年(明治38年)の「日露戦争」では、敗軍の将となったロシア軍の司令官「ステッセル将軍」の名誉を重んじ、健闘を称えたと言われています。どのような状況にあっても、相手への敬意を忘れない乃木将軍の姿勢を通して、日本の武士道は世界で賞賛されました。このような武士道精神を養い、後世に引き継ぐべく武道場「済寧館」(さいねいかん)や「至誠館」(しせいかん)が建設されたのです。
山岡鉄舟
1883年(明治16年)武道を奨励していた明治天皇の命を受け、宮内卿「徳大寺実則」(とくだいじさねつね)らは、東京の紀尾井町に、宮内省の文武講習道場として済寧館を建設しました。済寧館という名称は、四字熟語の「多士済々」(たしせいせい)のルーツとも言える中国最古の詩編「詩経」(しきょう)の一節「済々たる多士、文王以て寧し」に由来。多数の優れた人たちが集まる盛り場という意味が込められています。
1885年(明治18年)には済寧館で天覧試合が開催され、明治天皇も試合を楽しみました。その後も、宮内省皇宮警察部(くないしょうこうぐうけいさつぶ)主催の武道大会が度々開催され、1940年(昭和15年)には皇紀2,600年を記念して全国から選ばれた弓、剣、柔道の選手を集めた盛大な武道大会が行なわれたのでした。
済寧館の剣術指導者として招かれたのは、明治天皇に侍従として仕えていた「山岡鉄舟」(やまおかてっしゅう)をはじめとする、剣術に秀でた官僚や警察官。中でも「勝海舟」(かつかいしゅう)、「高橋泥舟」(たかはしでいしゅう)と共に「幕末の三舟」(ばくまつのさんしゅう)と称された鉄舟については「一刀正伝無刀流」(いっとうしょうでんむとうりゅう)の開祖となった剣術の腕はもちろん、その剛毅(ごうき)かつ高潔(こうけつ)な人柄で、明治天皇も信頼を寄せていたと言われています。鉄舟は、天皇が志向する武士道を体現する人物であったとも言えるのです。
済寧館
済寧館は、1888年(明治21年)に皇居内へ移築されましたが、1923年(大正12年)の「関東大震災」で建物が損壊。
その後、1933年(昭和8年)に当時の皇太子の生誕を記念して皇居内に現在の済寧館が完成しました。皇宮警察の柔道、剣道場である建物は、神社や城郭建築によく見られる「高床式切妻千鳥破風造り」(たかゆかしききりつまちどりはふづくり)と言う建築様式で、建坪300坪と同様式の道場としては日本最大規模。
最大の特徴は、天覧のために設けられたお車寄せと玉座で、お車寄せに続いている正面入口は、天覧試合が開催されるときにだけ使われているのです。
また、玉座右上に掲げられた「富士山」の絵は、明治から昭和まで活躍した日本画の巨匠「横山大観」(よこやまたいかん)の「富嶽」(通称・裏富士)。大観は自ら済寧館を訪問して、絵画を飾る場所を思い描いた上で、この絵を制作したと言われています。
至誠館は、1973年(昭和48年)明治神宮ご鎮座50年を記念し、武道を通して青少年の心身を鍛錬すると共に、日本の将来を担う人材を育てることを目的として、総合武道場として開設されました。神道家であり、思想家としても知られている「葦津珍彦」(あしづうずひこ)と、当時の「明治神宮」宮司「伊達巽」(だてたつみ)の武道教育に対する熱意が創立へと繋がったと言えます。
労働争議や過激化した学生運動などが起こっていた動乱の時代であったことから、入門者が集まるか不安視されていましたが、初代館長「田中茂穂」(たなかしげほ)をはじめとする指導者たちが尽力した結果、年々入門希望者の数は増え、国内だけに留まらず、海外からの入門希望者も門をたたき、現在では、武道を学ぶため、年間で2万人を超える人々が至誠館を訪れているのです。
明治天皇の心境を詠んだ御製に、次のような物があります。「いかならむ時にあふとも人はみな まことの道をふめとをしへよ」。その意味は、「どのような境遇、事態にあったとしても、人はみなまことの道を踏むようにすべきだと教えなさい」という物。
「まことの道」とは、誠実に物事に対処することであると考えられ、ここから、どのような境遇にあっても誠実に物事に対処することが大切であるという明治天皇の人生訓を読み取ることができるのです。至誠館の正面には、こういった武士道精神の導きとなる明治天皇の御製が月替わりで掲げられており、門人たちの心の指針となってきました。
剣術・剣道に学ぶ武士道
江戸時代には300もの剣術の流派があったと言われており、これが剣道のルーツ。明治から昭和にかけて、剣道は2つの大事件に直面したのでした。
ひとつは、それまでの「刀文化」を担ってきた人たちが一気に職を失うこととなった1876年(明治9年)布告の「廃刀令」で、2つめは1945年(昭和20年)の太平洋戦争敗北。敗戦により、日本が連合国軍に占領されたことで、剣道は禁止されてしまいます。
その後、1952年(昭和27年)「サンフランシスコ講和条約」の締結により、日本が主権回復を果たすと、剣道の復興のために「全日本剣道連盟」が結成され、剣道はスポーツとして認識されるようになりました。
至誠館は、武道としての剣道教育を心がけています。ただ試合に勝つためだけに稽古を行なうのではなく「心」、「技」、「体」を磨き、剣道を通して人格向上へと繋げていくことを大切にしている道場。
明治天皇が武道における精神の育成に熱心だったように、至誠館もこの使命を引き継ぎ、武士道精神を現代の日本に伝承しているのです。