日本を近代国家へと導いた「明治天皇」。その偉大な功績に比べ、その人物像は一般には浸透しているとは言えません。心の支えとなっていた皇后、身の回りの世話をしていた女官、皇位継承者の誕生を期待されていた側室など、天皇は日々多くの人たちとかかわりを持ち、その人たちに支えられて生活していました。また、7歳から「四書五経」(ししょごきょう:儒教の基本書とされる9種の書物)を中心に勉学を始めていた明治天皇にとっての息抜きは、チャンバラ遊び。幼い頃から日本刀に興味を持つなど、好奇心旺盛な明治天皇は、多くの趣味を楽しんでいたのです。激動の時代に、最前線で国家を牽引した明治天皇の素顔と日常を覗いてみましょう。
明治天皇は1852年(嘉永5年)9月22日(新暦では11月3日)、生母「中山慶子」(なかやまよしこ)の実家である中山邸で産声を上げました。父親である「孝明天皇」(こうめいてんのう)は誕生してから1ヵ月後に中山邸を訪れ、念願の初対面を果たしましたが、その後35歳の若さで崩御。明治天皇は、わずか14歳で政治の中心へ引っ張り出されることとなったのです。ここでは、即位後45年に亘って日本の近代化に尽力した、天皇の知られざるエピソードの一部をご紹介します。
明治天皇
明治天皇と聞いて思い浮かぶ姿は、軍服を着た威厳ある顔付きですが、実はこれは写真ではなく肖像画。天皇は写真撮影が大の苦手で、1873年(明治6年)以降の15年間は、全く写真が残っていないと言われており、加えて、肖像画を描かせることも拒否していました。
青年期に入った明治天皇の公式な肖像写真がないことに頭を悩ませていた政府は、イタリア人の版画家、彫刻家の「エドアルド・キヨッソーネ」に対し、何とかして肖像画を描いてくれないかと依頼したのです。
キヨッソーネは、明治政府の招きによって来日し、日本の紙幣や切手の印刷技術の向上に大きく貢献。そんなお雇い外国人が採った方法は、明治天皇が大好きだった相撲観戦中に、遠くからこっそりスケッチする、という大胆な物でした。もし天皇に見つかっていたら、あの肖像画は完成しなかったのかもしれません。
肖像画はそのあと、初代内閣総理大臣を務めた「伊藤博文」が譲り受け、現在は「明治神宮」に奉納されています。
1868年(明治元年)10月1日遷都による東京行幸(ぎょうこう:天皇が外出すること)で静岡を通過する際、明治天皇は「浜名湖」付近の白須賀宿で初めて「太平洋」を望みます。そして、4日には「大井川」の金谷台で初めて「富士山」を鑑賞。太平洋と富士山を一度に見たのは、歴代天皇では初めてでした。
1872年(明治5年)9月12日には新橋から横浜間を走る日本初の鉄道が開通。これを記念して「新橋駅」で記念式典が開催された際、天皇と皇后は初めて列車に乗車しました。
また、1894年(明治27年)には明治天皇と「昭憲皇太后」(しょうけんこうたいごう)の「大婚二十五年祝典」を開催。これは日本初の「銀婚式」で、西洋の風習を取り入れ盛大なパーティーが開かれました。それまでの日本では、結婚記念日の風習もなかったと言われており、事実上、この銀婚式が行なわれたことが、日本に結婚記念日の風習が広まるきっかけとなったのです。明治時代は、近代化によって西洋文化が一気に流れ込んできたため、明治天皇は、日本初となる体験を数多くした人物となったのでした。
大の酒好としても知られている明治天皇は、日本酒、ワインなど毎晩晩酌を欠かさず、また頻繁に宴を催しては臣下の者たちと共に、明け方まで飲んでいたと言われています。健康のため、医師からは酒量を一晩一瓶に止めておくよう忠告を受けていましたが、天皇は気に留めていませんでした。
このような生活がたたってか、晩年は体重が増加し、心臓への負担も懸念される状況に。それでも天皇は健康面を気にすることなく、また医者嫌いでもあったため、生涯で一度も歯の検診を行なわなかったとも言われています。国や臣民(しんみん:明治憲法下における国民)のことを人一倍気にしていた天皇でしたが、自身の体を労ることはなかったようです。
生母・中山慶子
明治天皇の生母は、孝明天皇の典侍(てんじ:位の高い女官)として宮中に上がり側室となった中山慶子。孝明天皇は、正室との間に4人の皇子・皇女を授かりましたが、みな早世しています。16歳の慶子が皇子を出産したとき、宮中は大きな喜びに包まれました。慶子は実家中山邸で出産後、明治天皇が3歳の頃にともに宮中に戻り、慶子の局で一緒に暮らすことに。
しかし、慶子の家柄では正室に上がることができなかったため、7歳のときに明治天皇が「親王宣下」(しんのうせんげ)により、親王となったあとも、慶子は女官の地位のまま生涯明治天皇に仕えることとなったのです。慶子は、女官として天皇を側で支えながら、ときに厳しく、あたたかい眼差しを向けて成長を見守ります。
その後、「大正天皇」が誕生したときも養育担当となり、天皇家の教育に深くかかわり続けて73歳で薨去(こうきょ)しました。
近代国家創建に向け、先頭に立っていた明治天皇を陰で支えたのは、妻である昭憲皇太后でした。左大臣「一条忠香」(いちじょうただか)の娘「一条勝子」(いちじょうまさこ)は、18歳で天皇の女御(にょうご:天皇の寝所に侍する女性。皇后候補となることが多い)となり、20歳のときに美子(はるこ)と改名して皇后になりました。
皇后は鼻が高かったことから、女性にあだ名を付けて呼ぶことが好きだった天皇から「天狗さん」と呼ばれていたと言われています。
教養を身に付け、聡明で和歌の心も持ち合わせていた皇后は、天皇にとって最高の話し相手となりました。両者は子に恵まれませんでしたが、皇后は、天皇を精神的に支えるパートナーとして、大切な存在だったと言えます。
また、皇后は日本の女子教育や社会事業の発展に大きく貢献。国の近代化にも積極的で、新しい文化を取り入れるセンスがあったため、日本女性の西洋化を切り開いた人物でもあったのです。皇后は、明治天皇が崩御した2年後の1914年(大正3年)、狭心症の発作で重体となり、64歳で崩御しました。
宮中には政治を行なう場である「表」と、天皇・皇后が生活する場の「奥」があります。奥には、総勢300人ほどの女官が従事していたと言われており、そのうち30人ほどが典侍などの高等女官でした。
女官たちは、天皇・皇后の着替えやご膳、入浴の手伝いなどをしており、天皇の入浴の際には3人の女官が体を洗うのがルール。上半身が清浄で下半身が不浄であることから、上半身と下半身を一緒のお湯で洗ってはならないという「穢れ思想」(けがれしそう)に基づき、上半身と下半身を別の女官が洗うなど、様々な独自のルールがありました。そのわずらわしさから、明治天皇は風呂嫌いになってしまったようです。
また明治天皇は、典侍から5人の側室をもうけ、側室との間には5人の皇子と10人の皇女が生まれました。しかし、このうちの10人の皇子・皇女は早世。無事に成人した皇子は典侍「柳原愛子」(やなぎわらなるこ)が生んだ嘉仁親王(よしひとしんのう:のちの大正天皇)ただひとりでした。
愛子は公家のなかでは身分が低かったものの、皇太子の生母となったため奥では強い権力を保持。8人もの皇子・皇女を生んだ「園祥子」(そのさちこ)も優遇されてはいたものの、祥子が生んだ皇子はみな早世してしまったため、愛子ほどの力は持っていなかったようです。
明治天皇の趣味として有名なのが乗馬です。幼い頃の天皇は、お供の者の背に乗り遊んでいました。木馬をプレゼントされた際にはとても喜び、毎朝またがっていたほど。15歳になった天皇は、乗馬を嗜むようになり、ご苑を馬に乗って颯爽と駆け抜ける日々を送っていました。
1876年(明治9年)奥羽地方(現在の東北地方)行幸の際に、天皇は運命的な出会いを果たします。岩手県水沢町で飼われていた南部馬を見初め、その場で買い上げたのです。この馬こそが、そのあと13年間明治天皇のパートナーを務めたご料馬「金華山号」(きんかざんごう)です。とても冷静な性格の賢い馬で、大演習の際に多くの馬が大砲の轟音に驚き暴れまわっていても、金華山号だけは全く動揺せずに落ち着いていました。天皇は馬好きだったため、国内外から多くのご料馬が集められましたが、金華山号ほど寵愛を受けた馬はいなかったと言われています。
明治維新によって幕府の後ろ盾がなくなった能は衰退し、存続の危機に陥っていました。しかし明治天皇をはじめとして、皇族や公家からの支持は厚く、能楽ファンの「岩倉具視」(いわくらともみ:維新政府で活躍した公家)らは、天皇を招いて自宅で天覧能を開催。また、宮中に能舞台を築かせ度々能を楽しんでいた明治天皇は、女官たちの前で自ら能を舞ってみせることもあったと言われています。
明治天皇が愛好していたことに加え、そののちの岩倉具視による能の継承活動により、能は日本の伝統芸能として現代まで引き継がれることとなりました。
明治天皇は、庶民的な娯楽であった将棋も楽しんでいたとされ、なんと自身の見合いの席でも将棋をさしていたことが判明しています。お相手は未来の皇后となる昭憲皇太后。初対面の2人が見合い中に将棋をさすというとても愉快なエピソードです。また相撲も熱心に観戦されており、何度も宮中で天覧相撲が行なわれていました。
質素倹約を実行していた明治天皇には意外な趣味がありました。それが「ダイヤモンド」です。その入れ込みようは、天皇の衝動買いを防ぐため、側近がダイヤモンドを売っている商店などに近付けないようにしていたほど。明治天皇は、ダイヤモンドがちりばめられキラキラと光っている指輪を日常的に愛用していたと言われています。もっとも、臣下の者たちに対して、褒美の品として気軽にダイヤモンドを与えるなど、宝飾品その物に対する執着はありませんでした。
宮中の朝は、午前8時頃に明治天皇の目覚めを確認したあとに発せられる、「おひーる」と言う女官の掛け声から始まりました。「おひる」とは、宮中で使われるご所言葉で、起床の意味。この掛け声と共に明治天皇の1日がスタートします。朝食のメニューは、カフェオレとパンといった質素な物。午前10時半、天皇は軍服に着替えてご学問所(天皇が勉学をしたり書斎として使ったりする場所)へ向かい、午前の執務を行ないました。
正午、昼食のため、ご学問所から戻るやいなや軍服からフロックコート(丈の長いタキシード)に着替え。フロックコートは、明治天皇にとって、政務以外で着用する普段着でした。天皇・皇后が別々のテーブルで取る昼食のメニューも洋食が多かったようです。昼食を終えた午後3時半、天皇は、再度軍服に着替えてご学問所へ向かいました。
午後7時の夕食では、和食を中心に20品ほどのメニューが並びましたが、豪華なディナーではなく、焼き魚や煮物など庶民的なメニューがほとんど。大皿に盛られたこれらの料理を女官が少しずつ取り分けて給仕され、残りは「おすべり」として臣下に下賜。宮中においては、天皇・皇后と宮中の職員は、大家族のように「同じ釜の飯」を食べていたのでした。天皇は、夕食後に蓄音機で音楽を流したり、軍歌などを歌ったりすることもあったようです。こうして明治天皇の平穏な1日は終わりを迎えます。
読書家だった明治天皇は、少年時代に様々な和、洋、漢の書物を読むことで、分野の知識を身に付けました。このように多様なジャンルを修得したことで、天皇はひとつのことにとらわれない柔軟な考え方を養ったのです。のちに近代国家を築き上げる指導者としての素養がこのときすでに磨かれていたのでした。
明治天皇は、天皇に学問を教える侍続、侍講に当時の一流学者たちを招聘(しょうへい)。また、毎年正月になると「御講書始の儀」(ごこうしょはじめのぎ:新年の宮中行事で、学者から講義を受ける儀式)が行なわれ、国書、漢書、洋書、それぞれの学界のトップが招かれて講義を行ないました。
天皇は学問に熱心だったため、日々の講義を欠席することはほとんどありませんでした。
皇祖崇拝
明治天皇は、幅広い知識を身に付けるために、洋書や漢書も熱心に勉強していましたが、学問が進むにつれて、次第に「古事記」や「日本書紀」などの国書に重点が置かれるようになっていきました。
古典を学ぶなかで、天皇の心には皇祖神(天皇の先祖である天照大神:あまてらすおおみかみ)への敬意が芽生え、初代天皇である「神武天皇」(じんむてんのう)を崇拝するように。明治という新しい時代を切り開くためのヒントは、古典を究めることにあると確信していったのです。
こうして天皇の思想のベースは固まり、のちに発せられる「教育勅語」や「軍人勅諭」に反映されます。
明治天皇は、日ごろから質素倹約を心がけていました。例えば、一度使った封筒をナイフで開いて「御製」(ぎょせい)の用紙として使用したり、執務室の収納には百貨店のシャツの空き箱を再利用していたりしていたと言われています。これは経費削減といった金銭的な理由だけではなく、むやみやたらと新しい物や、華美な物に心を奪われないとする天皇の精神がもとになっていると考えられるのです。
愛民精神に溢れていた明治天皇は、心はいつも臣民のなかにあると主張していました。天皇の思想として強かったのが、国を治めるには、まず臣民の気持ちを第一に考えなければいけないということ。そのため明治前期においては、地方行幸を頻繁に行なうなど、臣民の生活を常に気にかけていたのです。
行幸の際には、地方知事に臣民への心配りを大切にすることを強く指示。こういった天皇の思想から、教育や生活において明治天皇自らが模範となり、臣民を導いていく強い覚悟をひしひしと感じ取ることができます。
明治天皇は、生涯で93,032首もの御製を詠んでいます。これは歌人でさえも到達できないほどの驚異的な数。特に日露戦争が始まった1904年(明治37年)は、1年間で7,526首にも及び、政務をこなしながら毎日20首以上の歌を作っていた計算になるのです。
日本一の歌人と言っても過言ではない明治天皇の御製には、どんな思いが詠まれていたのでしょうか。明治天皇が歌に託した思想や心情を読み解いていきましょう。
孝明天皇
明治天皇の父である孝明天皇も歌人として知られており、幼い頃の明治天皇が、その歌の心に感銘を受けたことが和歌を好むきっかけとなったと言われています。
明治天皇の御製には、「たらちねのみおやの御代の むかしをもことあるごとに かたりいてづづ」や、「たらちねのみおやの御代を おもふ夜はをさなごころに かえりけるかな」といった父親を懐かしむ歌が何首もあり、その内容は、父親がいた頃を思い出しては幼心に帰るといった物。14歳で父親を亡くした明治天皇の切ない気持ちが伝わってきます。
明治天皇の国民に対する思いやりの心は、御製からも感じ取ることができるのです。「ちよろづの民の心ををさむるも いつくしみこそ基なりけれ」という歌では、高官たちに向け、民の心を知って民を愛することの重要さを詠んでおり、また日露戦争中には、「をちこちにわかれすみても国を思ふ 人の心ぞひとつなりける」。
臣民や軍人に対して、みんなで心をひとつにすれば、必ず苦難を乗り越えることができると考えていた、明治天皇の臣民を信頼する心が読み取れます。これらの御製は、明治天皇が教育勅語や軍人勅諭に込めた思想や心情を、より深く感じ取らせるための一助であったとも言えるのです。
日本刀と大和心を詠んだ御製
明治天皇の御製には、日本刀のことが書かれている物もあります。
「しきしまの 大和心を みがかずば 剣おぶとも かひなからまし」や、「身にはよし 佩かずなりても剣太刀 とぎな忘れそ 大和心を」など。この2首には、どれだけ鍛え上げて剣を身に付けていても大和心を磨かなければ意味を持たないといった、大和心を大切にする明治天皇の心情が表現されています。
心に大和と付けたのは、近代化が急速に進んでいた明治時代においても、西洋の文化に押し流されるのではなく、日本の心を大切にしていきたいという明治天皇の思いが込められていたのかもしれません。
歌御会始(うたごかいはじめ)とは、宮中で新年に催されている和歌を詠む会。その歴史は長く、鎌倉時代から始まり、昭和初期に「歌会始」(うたかいはじめ)と名称を変えて現代の皇室まで引き継がれています。
もともとは皇族や臣下の側近のみで催していた会でしたが、明治天皇の意向により、1874年(明治7年)に一般国民も参加できるようになりました。明治天皇は、和歌を詠むことで国民との交流を図ろうとしていたのです。
明治神宮のおみくじ「大御心」
明治神宮のおみくじは、他の神社の物とは違い、独自のスタイルを貫いてきました。大御心(おおみごころ)と名付けられたおみくじは、吉凶を占うという通常のスタイルではなく、教訓として明治天皇の御製と、昭憲皇太后の歌が記されている物。
明治天皇の93,032首の御製と、昭憲皇太后の27,825首の歌から道徳的な教訓が詠まれた物が各15首、合計30首選ばれ、解説付きで見ることができるのです。1947年(昭和22年)のお正月から始まったこの大御心は、現在では明治神宮の名物になっています。
日露戦争で日本がロシアに勝利したことで、日本の統治者たる明治天皇は、世界中から注目を浴びることとなりました。そのなかでも、ひと際関心を寄せていたのがアラブ諸国をはじめとするイスラム圏でした。
当時、アラブ諸国ではスルタン主義体制(個人支配主義体制)といった支配者による専制政治が行なわれていたため、同じような体制だったロシアの敗北のニュースは、衝撃を持って受け入れられたのでした。このことから、イスラム圏では「日本の皇帝を見習うべきだ!」と言う声が上がり、明治天皇を称賛する声が目立っていました。
日露戦争開戦後の1904年(明治37年)にエジプトで出版された「昇る太陽」では、明治天皇を偉大な人物として称えると共に、急激なスピードで成長を遂げた日本を昇る太陽に例え、それに対してエジプトを「沈む太陽」と比喩。日本と比較することで、エジプト人を奮い立たせようとしたのでした。
1905年(明治38年)にイランで出版された「ミカド・ナーメ」(天皇の書)では、日露戦争をテーマに写真と詩で明治天皇と日本を賞賛。「明治天皇は国家の改革によって学問と技術を向上させ、ロシアを打ち負かした。日本が私たちの先駆者となって知恵と文化の恩恵を与えてくれるだろう」と指導者としての明治天皇は、高く評価されたのです。
1905年(明治38年)にトルコで発表された「ロシアと日本」という論文では、日本がもしイスラム国家になったら明治天皇を「カリフ」(イスラム国家の最高権威者)にすれば、イスラム諸国の団結が強固になるだろうと言う主張が展開されています。
その後、1921年(大正10年)3月にイスラム民族連盟大会の代表として、ヘヂアスの王族が来日した際、イスラム教徒代表者会議で明治天皇を盟主として仰ぐことが決議された旨が伝えられたのでした。
1912年(明治45年)7月30日に明治天皇の崩御が発表されると、世界各国で報道され、世界中から追悼の言葉が寄せられました。インドでは「天皇陛下の崩御は日本だけではなく、全アジアに対して大きな損失である。アジア民族を覚醒させた大君主の崩御に世界各国民が哀悼の情を表するのは当然だ」と報じられ、アメリカでは当時の大統領が弔辞を発し、メディアは「明治天皇は1,000年以上かかる国の進展を僅か60年で成し遂げた」と大きな賛辞を述べたのでした。
また、ヨーロッパではフランス、ドイツで「日本を近代国家へ導いた明治天皇は、偉大なる君主」として、南米のブラジル、アルゼンチンでも明治天皇の崩御は、その功績と共に大きく報じられ、オーストラリアでは「明治天皇は偉大な人格者であり、さらに偉大な政治家であり、また最も賢明な君主である」と言う声明を発表。このように、世界各国から賞賛された明治天皇は、日露戦争以降、アジアに光を与えた存在となり、世界中が認める日本のリーダーとして称えられていたのです。