家系図・年表

守邦親王の家系図・年表
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守邦親王の家系図・年表 守邦親王の家系図・年表
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「守邦親王」(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府の第9代征夷大将軍。守邦親王が将軍になった頃、鎌倉幕府は一時の勢いを失っていました。将軍を飾り物にして実権を握る執権(しっけん:将軍の補佐職)を歴任した北条氏も力を失いつつあります。それでも朝廷への介入を続ける鎌倉幕府に対して忍耐の限界を迎えた「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が、倒幕に立ち上がるのです。ついに倒幕が果たされ、在任中に鎌倉幕府滅亡の日を迎えた守邦親王の人生はどのようなものだったのでしょうか。守邦親王の人生を年表で振り返るとともに、家系図をもとに縁者をご紹介します。

守邦親王の家系図

鎌倉幕府が、弱体化した将軍や執権と、力を増した御家人との間で揺れる間、朝廷も天皇の血統が分裂し混乱の最中にありました。血統が分裂してしまった理由や事情について、「守邦親王」(もりくにしんのう)と家系図の繫がる皇族とともに解説します。

守邦親王の家系図

守邦親王の家系図

久明親王

久明親王」(ひさあきしんのう)は、鎌倉幕府の第8代征夷大将軍で、守邦親王の父。

久明親王は、ある意味、幕府の要求通りの働きをした将軍であると言えます。飾り物に徹し、日頃は和歌をたしなみました。歌人として才能を発揮し、複数の和歌が勅撰集(ちょくせんしゅう:天皇の指示で編纂された歌集)に採用されています。久明親王には和歌以外、在任中の目立った業績はありませんが、それこそが幕府にとって都合の良い将軍のあり方だったのです。

久明親王以前の宮将軍(皇族の将軍)が、飾り物として扱いにくくなるなど、鎌倉幕府との関係悪化により追放同然で解任されてきた中で、久明親王は最後まで幕府と良い関係を保ちました。久明親王が亡くなると、鎌倉幕府は盛大な法要を行ったほどです。

伏見天皇

「伏見天皇」(ふしみてんのう)は、第92代天皇。守邦親王から見ると伯父にあたります。

父の「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)は、自身の子ではなく弟の「亀山天皇」(かめやまてんのう)に譲位させられました。後深草上皇は弟への譲位に不満を抱き、鎌倉幕府の力を借りる形で、息子の伏見天皇を即位させます。これにより、天皇の血統は、後深草上皇の持明院統(じみょういんとう)と、亀山上皇の大覚寺統(だいかくじとう)とに分裂してしまいました。

伏見天皇は自身の子「後伏見天皇」(ごふしみてんのう)に譲位しますが、皇統が分裂した状況に対し、鎌倉幕府は朝廷に両統迭立(りょうとうてつりつ:2つの家系から交互に即位させる状態)を提案し、朝廷もこれを受け入れます。これにより後伏見天皇の次は、大覚寺統の「後二条天皇」(ごにじょうてんのう)が即位することになるのです。

伏見天皇について特筆すべきは能書家(のうしょか:字を書くのが上手い人)としての才。書聖(しょせい:書道の名人)と評されるほどの実力であり、宸翰(しんかん:天皇直筆の文書)は重要文化財に指定されています。

後深草天皇

後深草天皇は第89代天皇で、守邦親王から見ると祖父となります。

後深草天皇が病気がちだったのに対して、弟の「恒仁親王」(つねひとしんのう:即位前の亀山天皇)は健康で利発。この兄弟の父「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)は、後深草天皇よりも恒仁親王を寵愛します。後深草天皇は熱病を患ったことをきっかけに、弟の恒仁親王へと譲位させられました。

この譲位に不満を持った後深草上皇は、鎌倉幕府の執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)に助けを請います。そして鎌倉幕府の介入により、亀山上皇の子である第91代「後宇多天皇」(ごうだてんのう)から、自身の息子の伏見天皇へと譲位させることに成功。伏見天皇の在任中は、上皇として院政を行いました。

後嵯峨天皇

後嵯峨天皇は後深草天皇の父で、守邦親王から見ると曾祖父にあたる、第88代天皇。後嵯峨天皇の父で第83代天皇だった「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)が、朝廷と幕府が戦った「承久の乱」(じょうきゅうのらん)敗北後に配流(はいる:流罪)されると、一家は力を失います。しかし、土御門上皇は、実は承久の乱にかかわっていませんでした。土御門上皇の父「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が配流されたため、親への不義理にならぬようにと自ら名乗り出て配流されたのです。

第87代「四条天皇」(しじょうてんのう)の後継者を選ぶ際、承久の乱にかかわらなかったのに配流された土御門上皇の事情が汲まれ、後嵯峨天皇が即位。後嵯峨天皇は、息子である「宗尊親王」(むねたかしんのう)を鎌倉幕府にとって初めての皇族出身の将軍として送り、幕府と良好な関係を保ちました。

しかし、後嵯峨天皇が息子達のうち恒仁親王を寵愛して、兄皇子の後深草天皇から譲位させたうえ、その後の皇位継承者を決めず幕府に任せてこの世を去ってしまった結果、天皇の血統が分裂することになるのです。

守邦親王の年表

およそ150年続いた鎌倉幕府の最後の将軍となった守邦親王は、どのような人生を歩んできたのでしょうか。ここでは、守邦親王が生まれてからこの世を去るまで何が起こったのか、年表形式でご紹介します。

西暦(和暦) 年齢 出来事
1301年(正安3年) 1
鎌倉幕府の第8代征夷大将軍・久明親王の子として誕生。
1305年(嘉元3年) 5
嘉元の乱(かげんのらん)。
連署・北条時村(ほうじょうときむら)が同じ北条氏の北条宗方(ほうじょうむねかた)に殺される。
1308年(徳治3年/
延慶元年)
8
父・久明親王が将軍職を解任される。将軍職を継ぎ、鎌倉幕府の第9代征夷大将軍となる。
1317年(正和6年/
文保元年)
17
品位(ほんい:親王や内親王の位)が二品になる。
1321年(元応3年/
元亨元年)
21
後醍醐天皇が父・後宇多法皇の院政を廃止して、天皇親政(天皇が政治を行うこと)を始める。
1324年(元亨4年/
正中元年)
24
正中の変(しょうちゅうのへん)。
後醍醐天皇が倒幕を企てたものの事前に発覚し、失敗。後醍醐天皇の近臣が罰せられた。
1333年(元弘3年) 33
後醍醐天皇による倒幕運動・元弘の乱(げんこうのらん)に幕府が敗れ、鎌倉幕府は終わりを告げる。
鎌倉幕府の滅亡により将軍職を辞して出家。数ヵ月後にこの世を去る。

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