鎌倉時代

元弘の乱

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鎌倉幕府は、約150年続いた武家政権です。しかし、「文永の乱」と「弘安の乱」の2度に亘る「元冦」や、幕府とつながりを持たない新しい武士「悪党」(あくとう)の横行で、次第にその権威が低下。そして、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)の倒幕計画に同調した勢力が蜂起して起きた「元弘の乱」によって、ついに滅亡へと追い込まれました。滅亡のきっかけを作った「後醍醐天皇」と「元弘の乱」が起きた経緯をご紹介します。

正中の変

後醍醐天皇

後醍醐天皇

「後醍醐天皇」は、1288年(正応元年)に「後宇多天皇」(ごうだてんのう)の第二皇子として誕生。天皇に即位したのは1318年(文保2年)30歳のときで、これは幼帝が続いた当時にあっては異例の遅さでした。

後醍醐天皇が望んだのは、天皇の権威回復と、皇位の統一。当時、天皇家は「後深草天皇」(ごふかくさてんのう)の子孫「持明院統」(じみょういんとう)と「亀山天皇」(かめやまてんのう)の子孫「大覚寺統」(だいかくじとう)の2つに分かれ、交代して皇位に付くと言う「両統迭立」(りょうとうてつりつ)の時代でした。

後醍醐天皇は、自らの系統である大覚寺統だけが皇位を継ぐべきだと考えたのです。それを実現するには権威を握り、皇位の決定にも関与する鎌倉幕府を倒さなければなりませんでした。

1321年(元亨元年)、後醍醐天皇は盛んに「無礼講」と称する宴会を開きます。「無礼講」とは、男が烏帽子を脱ぎ、僧侶は衣を着ず、若い女性に酌をさせることですが、後醍醐天皇はただ酒を飲んでいたのではなく、その裏で倒幕の話をしていました。

1324年(元亨4年/正中元年)、倒幕計画を緻密に練っていた後醍醐天皇に思いがけない事態が起きます。倒幕に賛同していた土岐氏の妻が、倒幕計画を幕府の出先機関である「六波羅探題」(ろくはらたんだい)に密告したのです。

無礼講に参加していた武士達は、幕府の急襲にあって自刃、または捕らえられて鎌倉へ護送。後醍醐天皇の側近「日野資朝」(ひのすけとも)などが流刑に処された一方で、後醍醐天皇に対するお咎めは特になかったと言います。

笠置山の戦い

楠木正成

楠木正成

1331年(元弘元年)、幕府のもとに「後醍醐天皇が再び倒幕計画を企てている」という密告が入ります。密告したのは、後醍醐天皇の側近「吉田定房」(よしださだふさ)です。

吉田定房は、1度目の倒幕計画が発覚する以前から、後醍醐天皇の倒幕に反対していた忠臣で、1度目の計画発覚後には、幕府に「後醍醐天皇は無関係である」と擁護の主張を行なうほど忠義に厚い人物でした。

2度目となる今回も、後醍醐天皇を守るために「倒幕計画の首謀者は日野俊基(ひのとしもと)である」と、身代わりとして賛同者のひとり「日野俊基」の名を挙げて、後醍醐天皇を守ろうとしたのです。

密告を受けた幕府は、ただちに使節を上洛させ、日野俊基らを鎌倉に送りました。しかし、捕まったうちのひとりが厳しい尋問の末に「倒幕計画を企てたのは後醍醐天皇だ」と自白してしまい、後醍醐天皇にも危機が迫ります。

後醍醐天皇は、ひそかに皇居を抜け出して要害の地として知られた「笠置山寺」(かさぎさんじ)に入りました。

六波羅探題は、後醍醐天皇を捕らえるために追撃。このとき、河内国(現在の大阪府)の「楠木正成」(くすのきまさしげ)、備後国(現在の広島県東部)の「桜山茲俊」(さくらやまこれとし)が後醍醐天皇に呼応して蜂起しました。

一方で幕府軍には、関東からの援軍が次々に到着。笠置山寺籠城から1ヵ月ほどたった頃、幕府軍の兵が笠置山の断崖をよじのぼり、寺に火を放って総攻撃を開始。籠城していた後醍醐天皇は、幕府軍の兵から逃れるために、若干名の供を連れて山道を逃げ隠れることになりました。しかし、疲労困憊のなかボロボロの姿で捕らえられ、その後「隠岐島」(おきのしま)に流刑となります。

同じ頃、急造した「赤坂城」で籠城し、幕府軍と睨み合っていた楠木正成も、物資の少なさから見て長期戦には耐えられないと判断し、自ら城に火をかけて行方をくらましたのです。また桜山茲俊は、笠置山と赤坂城の陥落を知り、絶望して自刃します。後醍醐天皇の2度目の倒幕計画は、これをもって一時休止となりました。

千早城の戦い

千早城の戦い

千早城の戦い

1332年(元弘2年/元徳4年)、赤坂城から行方をくらましていた楠木正成が再び姿を現して、幕府軍の手に落ちた赤坂城を急襲しました。

さらに、「護良親王」(もりよししんのう)の令旨に応じて播磨国(現在の兵庫県南部)の「赤松則村」(あかまつのりむら)、伊予国(現在の愛媛県)の「土居氏」、及び「得能氏」(とくのうし)が蜂起。幕府は、楠木正成がいる赤坂城へ兵を向かわせます。

楠木正成は、幕府軍に攻撃を与えつつ奥へ奥へと引いていき、最後の拠点である「千早城」に籠城。これを好機と見た幕府軍は、断水作戦を決行しますが、千早城内にはそれを見越して多量の水や食料が備蓄してあったため、作戦は失敗に終わりました。

千早城を包囲していた幕府軍は、長い籠城戦の末に次第に気を緩ませはじめます。楠木正成は、この機を見逃さずに一計を講じました。

夜、甲冑(鎧兜)を着せ、楯を前に置いた藁人形を30体ほど並べ、その後ろに約300人の精鋭を配置。そして、夜明け前に幕府軍へと襲い掛かりました。城から兵が討って出たと思った幕府軍は、すぐさま我先にと攻め込んでいきます。

楠木正成軍の精鋭達は、矢を射ながら退却。一歩も退かない人形めがけて突入した幕府軍の兵目掛けて、数十という大石が落下し、幕府軍はこれによって多くの死傷者を出しました。

さらに幕府軍は、諸国から寄せ集めた兵同士が双六をめぐって喧嘩となり、同士討ちを開始。200人ほどの死者を出すと言う事件を起こします。この報せを受けた幕府は激怒し「戦いもせず同士討ちとは何事だ。早急に城を攻め落とせ」と総攻撃を命じました。

千早城の深い堀に渡す巨大な梯子を造らせ、これを滑車で城の断崖に倒しかけると、数千の兵が城に押し寄せます。落城も間近と思われたそのとき、城から大量の松明(たいまつ)が投げ落とされ、さらに水弾(みずはじき:空気の力で水を押し出す道具)からは多量の油が降り注がれました。

火は谷風にあおられて、梯子は瞬く間に炎上。幕府軍は、楠木正成の見事な策に翻弄されて大勢の死傷者を出し、成すすべを失って敗走を喫します。

元弘の乱

足利尊氏

足利尊氏

1333年(元弘3年)閏2月、幕府が千早城の攻略に手を煩わせている隙を狙って、後醍醐天皇は密かに隠岐島を脱出。そして、伯耆国(現在の鳥取県西部)の「船上山」(せんじょうやま)に籠もり、綸旨(りんじ:天皇が発する命令書)を発して諸国の武士を召集しました。

これにより、幕府に不満を持つ武士や、情勢を様子見していた者達が後醍醐天皇のもとへ集結します。

同時期、勢力を増した赤松則村が京へ進軍し、四国でも倒幕軍が優勢に戦いを進めていました。そして、幕府には驚愕の報せが入ります。船上山へ後醍醐天皇討伐に向かわせた「足利高氏」(あしかがたかうじ:のちの「足利尊氏」)が寝返って六波羅に向かったと言うのです。六波羅は、急いで守りを堅固にし、襲撃に備えます。

そして、京で激戦が開始。赤松則村も参戦し、戦いは次第に幕府軍が押され始めます。劣勢を悟った幕府軍は、光厳天皇や「後伏見上皇」(ごふしみじょうこう)、「花園上皇」(はなぞのじょうこう)を伴い、再起を図って鎌倉へ落ち延びようとしますが、すでに行く先には落人(おちゅうど:敗者として逃亡する者のこと)を狙う野伏(のぶし)達が待ち構えており、兵は全滅。光厳天皇らは、後醍醐天皇側の武士に捕らえられて京へと戻されました。

後醍醐天皇は、六波羅の兵が全滅したという報せが届くと、鎌倉幕府が行なった光厳天皇即位を白紙に戻させます。光厳天皇を廃し、「正慶」(しょうけい)と改元された元号を以前の「元弘」に復し、さらに光厳天皇の名による官爵をことごとく削りました。

鎌倉幕府滅亡

新田義貞

新田義貞

六波羅が陥落してから、関東でも異変が起こります。千早城攻略に参加したものの、病と称して下野国(現在の栃木県)に戻っていた「新田義貞」(にったよしさだ)が、後醍醐天皇の綸旨を受けて鎌倉を討つために挙兵したのです。

新田義貞の軍は、入間川(いるまがわ)の小手指原(こてさしはら)、及び多摩川の分倍河原(ぶばいがわら)で幕府軍を撃破。次に鎌倉に攻め入りますが、鎌倉は南を海、他の三方を山で囲まれ、狭い切り通しで外と通じるだけの、守ることに有利な地形でした。

そのため、新田義貞軍も攻めあぐねて戦いは膠着しますが、新田義貞の本隊は稲村ヶ崎(いなむらがさき)の海岸を渡って鎌倉に突入。その頃には他の切り通しも破られ、町には火の手があがりました。

幕府軍の中からは、討ち死にや自刃する者も多数あり、約150年に亘って栄えた鎌倉幕府は、ついに滅亡のときを迎えたのです。

こうして天下は、後醍醐天皇のものとなり、長い戦乱は終わりを告げたかに思われました。しかし、これはさらなる動乱の始まりでしかなかったのです。

元弘の乱

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