「惟康親王」(これやすしんのう)は、鎌倉幕府の第7代征夷大将軍。父であり第6代征夷大将軍である「宗尊親王」(むねたかしんのう)の長男です。惟康親王が父から将軍の座を譲位されたのは、3歳のとき。惟康親王は将軍になったあとに親王宣下(しんのうせんげ:皇族の子に親王や内親王の地位を与えること)されたため、父とともに宮将軍(みやしょうぐん:征夷大将軍になった親王)に数えられています。しかし、この親王宣下は、鎌倉幕府が惟康親王が長く将軍職にあるのを嫌い、都に送り返すためにお膳立てしたとも言われているのです。周囲の都合で将軍にされ、雨のなかを放り出されるように解任された不遇の将軍である惟康親王の人生を年表で振り返り、家系図の繫がる縁者をご紹介します。
宗尊親王は、惟康親王の父で鎌倉幕府の第6代征夷大将軍。鎌倉幕府初となる皇族出身の将軍です。
鎌倉幕府の開祖「源頼朝」(みなもとのよりとも)の未亡人「北条政子」(ほうじょうまさこ)は、かねて皇族から将軍を迎えて幕府の権威を確かなものにしたいと考えており、その悲願を叶えたのでした。
宗尊親王は「後嵯峨天皇」(ごさがてんのう)の長男。しかし、宗尊親王の母は身分が低かったため、天皇になれる可能性は低かったのです。当時の皇位継承には生まれた順番だけではなく、母方の血筋も大きく影響していました。そこで、鎌倉幕府に将軍を皇族から迎えたいと求められた際、即位の可能性がほぼない宗尊親王が適任とされたのです。
11歳で将軍となった宗尊親王ですが、成長して鎌倉幕府の思い通りに動かすのが難しくなると、周囲は追放を画策。25歳のとき、謀反の嫌疑をかけられ、将軍職を追われました。
後深草天皇は第89代天皇。後嵯峨上皇の子で、宗尊親王の異母弟、亀山天皇の同母兄です。
父・後嵯峨上皇と母「大宮院」(おおみやいん)は、病気がちだった兄の後深草天皇より、健康で優秀な弟の恒仁親王に期待を寄せていました。後深草天皇は17歳で熱病を患ったことをきっかけに譲位させられ、弟の恒仁親王が亀山天皇になったのです。さらに、後深草上皇の子を差し置いて、亀山天皇の子が皇太子となります。
しかし、後嵯峨上皇が皇位継承について指示を出したのはここまで。以降について何も決めないままこの世を去ったため、混乱が起こります。
後深草上皇は引き下がらず、鎌倉幕府の執権「北条時宗」(ほうじょうときむね)に接近し、その政治力を借りて、自分の息子を亀山天皇の子で第91代天皇「後宇多天皇」(ごうだてんのう)の後継者にしたのです。これにより後深草上皇の子は、後宇多天皇から譲位されて第92代天皇「伏見天皇」(ふしみてんのう)となります。
後深草上皇は、地位だけでなく、両親の愛情をも弟に独占されましたが、わが子を天皇にすることで一矢報いた形となりました。しかし、皇室はこれ以来、後深草天皇の系統と亀山天皇の系統に分裂し、これがのちの南北朝の対立につながるのです。
後嵯峨天皇は第88代天皇で、惟康親王の祖父にあたります。後嵯峨天皇の誕生後まもなく、祖父の「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう)が倒幕を画策した「承久の乱」(じょうきゅうのらん)を起こしました。
後鳥羽上皇の子で、後嵯峨天皇の父である「土御門上皇」(つちみかどじょうこう)は、承久の乱にかかわってはいなかったのですが、父の後鳥羽上皇がこの反乱に敗北して流罪とされたため、不義理にならぬようにと自らも名乗り出て島流しにされたのです。
土御門上皇の流罪により土御門家は力を失い、「邦仁王」(くにひとおう:即位前の後嵯峨天皇)は元服(げんぷく:成人の儀式)もできず不遇の青年時代を過ごします。
第87代天皇である「四条天皇」(しじょうてんのう)が嫡子のないまま没すると、後継者問題が発生。鎌倉幕府は、承久の乱にかかわらなかった土御門上皇の子である邦仁王を推薦し、邦仁王が即位して後嵯峨天皇となったのです。
後嵯峨天皇は皇子のひとり、宗尊親王を将軍として鎌倉に送り、鎌倉幕府と親密な関係を築きました。しかし、皇位継承において兄皇子・後深草天皇と、弟皇子・亀山天皇を対立させたままこの世を去ったことで、皇室の血統が分裂する原因を作ってしまったのです。
わずか3歳にして将軍職を継ぎ、鎌倉幕府の第7代征夷大将軍となった惟康親王は、どのような人生を歩んできたのでしょうか。
ここでは、惟康親王の誕生から死去までを、年表形式でご紹介。その歴史を振り返ります。
西暦(和暦) | 年齢 | 出来事 |
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1264年(弘長4年/ 文永元年) |
1歳 |
鎌倉幕府第6代征夷大将軍であった父・宗尊親王と近衛宰子(このえさいし)の間に生まれる。
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1266年(文永3年) | 3歳 |
父・宗尊親王が謀反の嫌疑をかけられ将軍を解任される。父の跡を継ぎ、鎌倉幕府の第7代征夷大将軍となる。
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1270年(文永7年) | 7歳 |
朝廷から臣籍降下(しんせきこうか:皇籍から離脱し臣下になること)を受けて源(みなもと)姓を賜り、源惟康になる。
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1274年(文永11年) | 11歳 |
文永の役(ぶんえいのえき)が起こる。モンゴル帝国・元王朝の皇帝フビライ・ハンが日本へ侵攻。博多(福岡県)に上陸するも、天候も味方して撃退する。
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1279年(弘安2年) | 16歳 |
正二位を授けられる。
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1281年(弘安4年) | 18歳 |
弘安の役(こうあんのえき)が起こる。フビライ・ハンが再び日本へ侵攻してくるが、撃退する。
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1287年(弘安10年) | 24歳 |
右近衛大将に任命されるも、数ヵ月後に辞任。朝廷から親王宣下を受けて皇籍に復帰、惟康親王となる。
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1289年(正応2年) | 25歳 |
謀反の嫌疑をかけられ将軍職を解任される。都へ送還され、出家。
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1326年(正中3年/ 嘉暦元年) |
62歳 |
死去。
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