大河ドラマ特別番組「どうする松本潤?徳川家康の大冒険」は、「どうする家康」で徳川家康を演じる松本潤さんが、徳川家康の人生をたどるため、ゆかりの地を訪れて歴史的背景を検証する特別番組です。
語りは「グレーテルのかまど」、「大改造!!劇的ビフォーアフター」のナレーションでおなじみのキムラ緑子(きむらみどりこ)さん、解説は日本の歴史学者・本郷和人(ほんごうかずと)さんです。天下人として知られている徳川家康の人生は、ピンチの連続でした。
なかでも桶狭間の戦い、「長篠の戦い」、「本能寺の変」は徳川家康の人生において絶体絶命のピンチだったと言われています。
ここでは、ピンチを「あなたならどうする?」と迫られた選択を「どうするポイント」として捉え、徳川家康はどう切り抜けたのか、松本潤さんならどのように切り抜けるかをご紹介。また、徳川家康が行った選択の歴史的背景を検証していきます。
桶狭間の戦いは、1560年(永禄3年)に尾張国(現在の愛知県)桶狭間で織田信長軍と今川義元軍の間で起きた戦いです。今川軍の先鋒を任されていた徳川家康は、大高城(愛知県名古屋市緑区)へ兵糧を補給することを命じられていました。
織田軍の包囲を突破し、無事に兵糧入れを成功させた徳川家康ですが、その頃、今川義元が織田信長に討たれたという情報が届きます。
しかし、大高城から桶狭間までは約4㎞も離れており、自分の目では確認することができません。このとき、松本潤さんなら、「出撃して戦う」、「籠城して守りを固める」、「何もしない」のうち、どれを選ぶかが問われます。
松本潤さんは「戦国の世なら生き残らなくてはならない」と言う考えから、「何もしない」を選択しました。実は徳川家康も状況が見えないため、その場にとどまり、夜まで情報を集めていたとされています。そのあと、徳川家康は生まれ故郷の岡崎城(愛知県岡崎市)に戻ることを決意。
菩提寺である大樹寺(たいじゅじ)へ入ります。しかし、そこでも織田軍の追撃に阻まれ、徳川家康は先祖の墓前で自害しようとしました。
そんな徳川家康を救ったのが、大樹寺の13代住職「登誉」(とうよ)上人です。登誉上人は前途を悲観する徳川家康に「戦国乱世を住みよい浄土にすることがあなたの役目です」と語りかけます。これは「厭離穢土、欣求浄土」(おんりえど、ごんぐじょうど)という仏教の教え。
その言葉を聞いた徳川家康は再起を決意し、見事に織田軍を迎え撃つと、ついに岡崎城へ入城することができたのでした。なお、徳川家康は厭離穢土、欣求浄土と言う言葉を生涯の目標にし、戦場では自らの旗印として掲げ、天下人への道を歩んでいきます。
長篠の戦いは、1575年(天正3年)に三河国長篠城(愛知県新城市)をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍と武田勝頼(たけだかつより)軍の間で起きた戦いです。決戦の場が設楽原(したらがはら)だったことから、「長篠・設楽原の戦い」とも呼ばれています。
この戦いでは、大量の鉄砲が導入され、戦国時代最強と恐れられた武田軍の騎馬隊を撃退しました。戦場となった設楽原では、陣地の一部を再現。松本潤さんは約10㎏ある甲冑を身に付け、レプリカの火縄銃を持ち、鉄砲隊の戦いを体験します。
連吾川(れんごがわ)を挟んだ武田軍の陣地から、織田信長・徳川家康連合軍の馬防柵までは約50mしかなく、騎馬隊が到着するまでは約5秒。火縄銃を撃つには、いくつかの手順があり、慣れた者でも20秒はかかってしまいます。
しかし、織田信長・徳川家康連合軍は、隊列を組んで交互に火縄銃を撃つ「三段打ち」を実施することで、絶え間なく発砲し、武田軍の騎馬隊を打ち破ったのです。なお、徳川軍の陣地は危険な場所だったと言われています。
迫る武田軍に対し、徳川家康は最前線に立って指揮をしていました。このとき、もし松本潤さんが自分の軍を率いて戦うなら、「おとりになって引き寄せる」、「馬防柵の前に出て戦う」、「武田軍の出方を見守る」のうち、どのような戦い方をするかが迫られます。
松本潤さんは悩みながらも「見守る」を選びました。しかし、徳川家康は、自らおとりとなって最前線に立ち、馬防柵の前で戦うことを選択。その背景として、長篠城(愛知県新城市)では徳川家康の家臣「奥平貞昌」(おくだいらさだまさ)の存在がありました。
長篠城はすでに15,000もの武田軍に包囲され、落城寸前の状態です。徳川家康は奥平貞昌を助けるために、自ら体を張って武田軍の猛攻に立ち向かいます。そして、見事に武田軍の注意を引き付け、奥平貞昌を助けることができた徳川家康は、義理堅い武将として世の中に知られました。
本能寺の変は、1582年(天正10年)に天下統一を目の前にしていた織田信長が家臣「明智光秀」(あけちみつひで)に討たれた事件のことです。
このとき徳川家康は、大坂の堺で見物の最中でした。織田信長が討たれたと言う報せを聞いた徳川家康は、酒井忠次、本多忠勝、榊原康政、「井伊直政」(いいなおまさ)を含むわずか34名の家臣とともに、伊賀を超えて三河に戻ることを決意。
松本潤さんは実際に徳川家康が通ったとされる険しい山道を歩きます。「急勾配の道だ」と松本潤さんが感じた通り、徳川家康一行は敵に見つからないように、人気のない道を慎重に進むしかありませんでした。
しかし、そんな道にも伊賀の地侍や土豪による「落ち武者狩り」が待ち構えているのです。命がけの逃避行である伊賀越えを、松本潤さんなら、「地侍とひたすら戦う」、「猛スピードで駆け抜ける」、「頭を下げて通してもらう」のうち、どれを選択するかが迫られます。
悩む松本潤さんに対し、徳川家康が選んだ選択はすべて。特に34人の家臣達が徳川家康のために死力を尽くし、無事に岡崎城へ帰還することができたのでした。そのあとも徳川家康は数々の戦いを勝利。戦場では厭離穢土、欣求浄土と言う旗印を掲げ、太平の世をつくるために突き進んでいくのです。
また厭離穢土、欣求浄土以外にも、徳川家康の旗には数字の「五」と書かれた旗があります。これは「互」(ご)に通じ、仲間と言う意味。仲間を大切にし、みんなを仲間にすると言う徳川家康の想いが込められたと言われています。
松本潤さんは徳川家康の追体験を通じ、徳川家康のことを「チームで戦う方法を見つけた人」と捉え、「教科書や参考書に掲載されていた歴史上の人物を、実際に生きていた人物であると実感できた。徳川家康の生き方は、今の自分達が生きる社会にもヒントになるのでは」とコメントされました。
「どうする家康」は、乱世に振り回されながら、必死に生き抜き戦国の世を平定させた徳川家康の物語。脚本家・古沢良太さんが新たな視点で徳川家康の生涯を描きます。
また、徳川家康役の松本潤さんは、徳川家康のゆかりの地とされる場所を旅し、追体験を辿ることで、徳川家康と言う人物を探求。「どうする家康」と言う作品を、個性豊かな仲間や家臣達「チーム家康」とともにどのように演じるか、目が離せません。