「北条貞将」(ほうじょうさだゆき)は、鎌倉幕府17代執権を務めた人物。父は鎌倉幕府15代執権「北条貞顕」(ほうじょうさだあき)、母親は鎌倉幕府7代執権である「北条政村」(ほうじょうまさむら)の嫡男「北条時村」(ほうじょうときむら)の娘です。一般的に、鎌倉幕府最後の執権は16代「北条守時」(ほうじょうもりとき)と言われていますが、北条貞将が最後の執権であったという説も存在。北条貞将の生涯と、最後の執権と言われる理由についてご紹介します。
「北条貞将」(ほうじょうさだゆき)が誕生した1300年代は倒幕運動が本格化してきた時代であり、様々な争いが各地で発生。北条貞将は一生のほとんどを倒幕運動の対応に費やし、度々苦労を嘆いていたとも言われています。

北条貞将
1302年(乾元元年)、北条貞将は鎌倉幕府15代執権「北条貞顕」(ほうじょうさだあき)と鎌倉幕府7代執権である「北条政村」(ほうじょうまさむら)の嫡男「北条時村」(ほうじょうときむら)の娘の間に誕生しました。
金沢文庫にある古文書によると、1318年(文保2年)に評定衆(ひょうじょうしゅう:有力御家人や官僚とともに政務処理や訴訟を行う役職)に就任しました。
引付五番頭人(ひきつけごばんとうにん)を務め、正室を迎えたとされています。この頃にはすでに従五位下(じゅごいのげ)の位階にあったと言われていますが、昇進した詳しい時期は分かっていません。
1324年(正中元年)、「後醍醐天皇」(ごだいごてんのう)が企てた倒幕計画「正中の変」(しょうちゅうのへん)が発覚。これに対応するため、北条貞将は約5,000騎を率いて京都に赴きました。事件を抑えることに成功した北条貞将は1330年(元徳2年)に鎌倉へ戻り、引付一番頭人(ひきつけいちばんとうにん)に昇任します。
1333年(元弘3年)には「足利尊氏」が六波羅探題(鎌倉幕府が京都に設置した出先機関)を攻略。北条貞将も幕府を守るため、他の北条一族とともに対応にあたりました。

巨福呂坂
1333年(元弘3年)、上野国(現在の群馬県)で「新田義貞」(にったよしさだ)が挙兵。新田義貞率いる倒幕軍が鎌倉に侵攻する元弘の乱が起こります。
北条貞将は防衛のため、下総下河辺荘(現在の千葉県北部と茨城県南西部周辺、利根川の中流部)に赴きますが、「千葉貞胤」(ちばさだたね)や「小山秀朝」(おやまひでとも)率いる軍に敗北。
鎌倉に引き返し、16代執権の北条守時や「北条貞直」(ほうじょうさだなお)、「北条基時」(ほうじょうもととき)らとともに巨福呂坂(こぶくろざか:鎌倉市玄関口のひとつ)を防衛します。しかし、巨福呂坂の攻防中に16代執権・北条守時が自害。執権の座は宙に浮いたのです。
巨福呂坂が倒幕軍に突破され、北条貞将は「東勝寺」(とうしょうじ:神奈川県鎌倉市葛西ケ谷にあった寺院)に立てこもります。この際、東勝寺に立てこもっていた14代執権「北条高時」(ほうじょうたかとき)が東勝寺に辿り着いた北条貞将に感激し、両探題職を与えました。この両探題職という職が、おそらく執権にあたるであろうと推測されているのです。
しかしそのあと、北条貞将は両探題職と書かれた御教書(みぎょうしょ:高位の家司が主君の意思を奉じて発給した文書)を鎧に入れて倒幕軍に突撃し、討死して果てました。