戦国武将として名高い「武田信玄」は、多くの隠し湯を持っていたことでも知られています。武田信玄は甲斐国(現在の山梨県)から信濃(現在の長野県)へと侵攻し、さらに領土拡大のために越後(現在の新潟県)の「上杉謙信」と衝突するなど、生涯多くの戦に身を置きますが、度重なる戦に欠かせないのが兵力でした。兵の傷をできるだけ早く癒し戦力として兵を復活させるのに、隠し湯は欠かせない存在だったのです。
武田信玄
「武田信玄」は、数多くの温泉地を隠し湯として活用。甲斐(現在の山梨県)の「下部温泉」(しもべおんせん)や「川浦温泉」、信濃(現在の長野県)の「渋温泉」に「大塩温泉」、駿河(現在の静岡県)の「梅田温泉」など、武田信玄の隠し湯は父の時代から治めていた甲斐だけに収まりません。
領地拡大に合わせて、兵が効率良く回復できるよう、各地に隠し湯を置いていました。
このように武田信玄が活用した隠し湯の多くに共通するのが、近くに金銀鉱脈や硫黄があること。特に硫黄は火薬の原料になるなど、軍事的に活用できる大事な資源でした。そのため、武田信玄の隠し湯は治癒目的だけでなく、重要な資源の拠点近くを押さえ軍事的に利用する目的もかねていたと言えます。
また、数々の隠し湯と関係があった武田信玄ですが、隠し湯だけでなく一般客も利用する有名な温泉も手中に収めています。それが「草津温泉」(群馬県)です。1567年(永禄10年)には草津温泉を3ヵ月間、一般客が利用できないようにする命令を出しましたが、良く知られている温泉を長く入浴禁止にはできませんでした。
武田信玄の戦略において、辺鄙(へんぴ)で人がほとんど訪れない場所にある隠し湯は重要な存在だったのです。
川浦温泉は、すでに鎌倉時代に洞窟から源泉が湧き出ていることが知られており、温泉として人の手が加わったのは戦国時代。武田信玄の指示で川浦温泉の開発が行われました。温泉開発を指示しただけでなく、武田信玄自身も戦の傷を癒すために温泉に浸かったと言われています。
武田信玄自身が治癒目的で利用した隠し湯はいくつかありますが、この川浦温泉が他の隠し湯と異なる理由は、のちに武田氏の精鋭であり中核にいた武田二十四将のひとりに引き継がれたこと。それが、武田家2代に亘って仕えた「山縣三郎兵衛尉昌景」(やまがたさぶろうびょうえのじょうまさかげ)です。以降、山縣家が代々川浦温泉を引き継いでいます。
毒沢鉱泉(どくさわおんせん)は、信濃に位置する温泉。武田信玄の隠し湯の多くに共通する鉱脈に近い温泉で、泉質も鉱物が溶け出した鉱泉となっています。また、武田信玄が戦で心身ともに疲労した兵を癒す目的で利用したり、武田信玄の命令で金鉱を採掘していた人が怪我を治す目的で利用したりしたとも言われる温泉です。
そんな毒沢鉱泉の特徴とも言えるのが、独特な名前。この変わった名前は武田信玄が自ら付けたとされています。金鉱採掘を隠すためか、武田信玄率いる武田の兵が傷を癒すのを隠すためか諸説ありますが、いずれも武田信玄が温泉の存在を知られたくなかったために付けたとか。まさに、ひっそりと存在する隠し湯らしいエピソードなのです。