江戸時代、武士が常に携帯していた日本刀ですが、実際に「斬る」ことは、ほとんどありませんでした。しかし、他にも日本刀を活用する道があったのです。それは「兵法」(へいほう)に則った活用法。武士は斬るという「攻撃力」はもちろん「防御力」や「情報分析力」、「論理的思考力」などを、総合して身に付ける必要がありました。武士がどのように日本刀を活用したのか、詳しくご紹介します。
「兵法」とは兵学、軍学のこと。「孫子」(そんし)、「呉子」(ごし)、「六韜三略」(りくとうさんしゃく)など、古代中国で生まれた戦闘に関しての学問です。日本でも近世、これに神教、密教などが取り入れられ、独特の兵法が確立されました。
それは「軍配」(戦の日取り・方角など吉凶)、「軍礼」(出陣・凱旋・首実検などの式を定めること)、「軍法」(組織の組み方)、「軍略」(戦略・謀計)、「軍器」(武器の製法)について考察すること。
武士は、武術(攻防の技術)を身に付けることはもちろん、兵法を学ぶことで情報分析力や論理的思考力、将来を見通し対応する力といったオールマイティな能力を備えたのです。
道具を活用するとなると、忍者が行なう「忍法」を想像してしまいがちですが、そうではありません。一般の武士が行なってきた兵法としての日本刀の活用方法が存在しました。
有益な「情報分析」を行なうためには、質の高い「情報収集」を行なわなければなりません。質の高い情報を集めるには「足で稼ぐ」(自分で出向いて情報を得る)こと。どうしても敵の弱みを見付けたい場合は、敵の屋敷を覗き、忍び込む「諜報活動」(ちょうほうかつどう:敵の事情を探って知らせること)を行なうことも必要なのです。
塀のり吊り刀
屋敷の中にいる敵を観察する1番の方法は、塀を覗き込み話を盗み聞くこと。高い塀があった場合、日本刀の鐺(こじり:鞘の末端)を地面に突き刺して壁に立て掛け、踏み台にして覗くという方法があります。刀にもよりますが、これにより約1mの高さの踏み台を作り出すことができるのです。これを、「塀のり吊り刀」と言います。
敵情を見る程度なら、日本刀の鍔(つば)に乗って(片足の指を鍔のふちにかけて)覗き込めば、充分に盗み見できるはず。
塀を越えて部屋に入り込みたい場合にも、やはり塀のり吊り刀を行ないます。足で鍔を思い切り踏みしめ、手と足の力を巧みに使って塀に登るのです。
ポイントは、下緒の端を口にくわえておくこと。塀に登り切ったら下緒を手繰り寄せて刀を吊り上げ回収します。これで、塀のり吊り刀を行なった証拠を隠滅。完全な不法侵入ができ、情報を集めることができるのです。
武士には、どうしても情報収集を行なわなければならないときがあります。それは、実際的に夜間、暗闇で敵が見えない中を前進するとき。
夜間、道を歩くのはとても危険です。万一敵が伏せていたときに、どれだけ早く気付けるかどうかで、生死が分かれる場合もあります。そんなときに用いた情報収集方法が座さぐりです。座さぐりには、大きく2つの方法があります。
座さぐり
第1の方法は、帯刀していた日本刀を「鞘」(さや)ごと抜き取って、完全には抜刀せず刀身の鋒/切先を10cm程度鞘の中に残し、右手で柄と下緒の端を握ること。暗闇の中を鞘の先で探りながら静かに歩むのです。もし何かを感じ、鞘に何かがあたれば何かがあった、いたということ。その場合は咄嗟に判断(分析)し、逃げるか斬るかします。
第2の方法は、刀身の反りを逆さに持つこと。さらに、下緒の端を口にくわえます。これは、鞘がすべって抜けるのを防ぎ、集中力を高めるためです。
下緒の端をしっかり口でくわえてピンと張っておけば、いざというときに刀身を僅かに手元に引くだけで鞘が軽く抜け落ち、相手を的確に突き、斬り付けることができます。
また、暗闇の部屋の中や廊下で座さぐりをする場合は、壁にそって鞘をなるべく低い位置にして進むこと。這うくらい低い姿勢で進むのです。そうすれば敵の足に鞘があたり、発見率が高まります。
「思考力」とは、知識をインプットして知恵というアウトプットに変換することができる能力。江戸時代は、武士と言えども相当な理由がなく相手を斬ってしまうと、本人切腹、家名断絶、財産没収という、とても重い刑罰を科せられました。
そのリスクを回避するために、賢い武士は「威嚇」(いかく:威力を持って脅すこと)という方法を考えたのです。もし敵に襲われたとしても、敵が斬るに値する人物なのかどうか咄嗟に判断しなければいけません。相当な理由がないと判断した場合は、相手を威嚇し、その隙に逃げるのです。
相手を威嚇するのに、最も手軽で最も効果があるのが「目潰し」(めつぶし)です。目潰しとは、文字通り目に砂や灰などを掛けてつぶすこと。両目を塞いで視力を奪い、眼底に耐え難いほどの激痛を与える効果が期待できます。
目潰しの砂は、日本刀の鞘の中に仕込みます。具体的には、鞘を少し長めに作り鞘尻に空洞があまるようにし、そこに砂を仕込むのです。
砂だけでは効果が一時的でした。そこで「唐辛子砂」が開発されたのです。
まずは砂を用意します。砂の種類は、金剛砂でも川砂でも何でも大丈夫。粒の大きさを揃えることが肝心です。次に、唐辛子の赤い皮の部分だけを細かく刻んで、鍋に入れて点火します。その中に、水と粒が揃った砂を入れて、水分がなくなるまで煮込み、煎りあげるのです。砂のまわりに唐辛子の微粉がこびり付き、赤色になったら、でき上がり。
唐辛子砂の投げ方としては、鞘ごと帯から抜き取り鞘尻を左手で握り、左足を前に踏み込み鞘を引き抜きます。同時に大きく鞘を振って、目潰しの砂を敵の顔に投げかけるだけ。そして、敵がひるんだ隙に逃げるのです。
これが、目に入ると痛いのなんの。万が一、相手に目を閉じられたとしても、目を開いた時点で目がヒリヒリ痛む激痛を与えることができました。
とにかく防御だけをしたいなら「野中の幕」と言う方法があります。日本刀の鞘の部分を活用して「盾」を作る方法です。
武士は、ふいに襲われることが少なくはありません。しかも、色々な方角から矢や石などの飛び道具で狙われることもあったでしょう。そんなときに、咄嗟に防御する対処方法があったのです。
野中の幕
飛び道具を防御するには、盾が必要です。盾を作るには、まず着用していた羽織を脱いで、抜刀した鞘に両袖を通して、中心を左手で握ります。その左手を前面に伸ばして垂れ幕のように持つのです。これが盾の代わりになります。右手には抜いた刀身の柄を握っておくこと。この幕と刀身によって、突然に飛んでくる、矢や石を避けることができるのです。
また、この幕を敵が人間と錯覚して狙う場合があります。つまり、身代わり効果もあったのです。その隙に逃げることが可能になります。ここまで読んだ方は、日本刀を活用した結論が、ほとんど「逃げろ」という策ばかりで、なんて虚弱な活用法なんだと嘆く方がいるかもしれません。
しかし、昔から「逃げるが勝ち」と言うことわざがあります。「無駄な戦いや愚かな戦いなら、避けて逃げるほうが結局は利益が大きい」ことを、武士は分かっていたのです。