「武市瑞山」(たけちずいざん:武市半平太[たけちはんぺいた]とも)は、幕末の土佐藩(現在の高知県)の優れた剣術家であり思想家です。尊王攘夷論(天皇を敬い外国を排除すること)を掲げる長州藩(現在の山口県)の「久坂玄瑞」(くさかげんずい)や「高杉晋作」らとの交流を経て、「土佐勤王党」(とさきんのうとう)を結成しました。
武市瑞山
武市瑞山は1829年(文政12年)、土佐国長岡郡吹井村(現在の高知県高知市仁井田吹井)に誕生しました。通称は半平太で、本名を「小楯」(こたて)と言い、瑞山は号です。
武市家はもともと地元の裕福な農家でしたが、郷士(武士待遇の農民)に取り立てられ、さらに郷士の身分ながら、藩士の最上位「上士」に準じる「白札」へと昇格した家でした。
幼少期から文武に秀でた武市瑞山は、国学者「鹿持雅澄」(かもちまさずみ)を義理の叔父にもち、また「坂本龍馬」とは親戚関係にあります。武市瑞山は、端正な顔立ちで冷静沈着。夢を熱く語る情熱的な坂本龍馬とは異なる性格ながら、同じ理想を掲げていた時期もありました。
土佐四天王像(左から2番目が武市瑞山)
剣術家としても優れた武市瑞山は、1849年(嘉永2年)に、土佐藩郷士の娘「富子」(とみこ)と結婚。翌1850年(嘉永3年)には、吹井村から高知城下の新田町田淵に妻・富子と祖母を連れて移住し、1855年(安政2年)に剣術道場を開きました。のちに、尊王攘夷派の志士として活躍する「中岡慎太郎」(なかおかしんたろう)や「岡田以蔵」(おかだいぞう)などが門下生として道場で学び、土佐勤王党の基盤となります。
1856年(安政3年)には江戸に赴き、「桃井春蔵」(もものいしゅんぞう)が主宰する幕末江戸3大道場のひとつ「士学館」(しがくかん:現在の東京都中央区)で修行。鏡心明智流(きょうしんめいちりゅう)の免許を皆伝し、塾頭に就任するほどの腕前となりました。
1860年(万延元年)、武市瑞山はおとうと弟子の岡田以蔵を伴い、四国・中国・九州の諸藩をめぐる剣術修行の旅に出発。剣術の研鑽と西国の諸藩の情勢を視察後、江戸に戻っています。
坂本龍馬
1861年(文久元年)8月、武市瑞山は江戸で土佐藩士「大石弥太郎」(おおいしやたろう)、坂本龍馬、「吉村寅太郎」(よしむらとらたろう)、中岡慎太郎らとともに土佐勤王党を結成。盟約書によれば、1858年(安政5年)の「安政の大獄」で元藩主の「山内容堂」(やまうちようどう)が蟄居を命じられたことが結成のきっかけだったとされています。
武市瑞山の家柄が、土佐藩において郷士と上士の中間的身分・白札だったことから、党のメンバーは郷士や庄屋層が中心となり、約200名の志士達からなる組織となりました。その後、坂本龍馬は武市瑞山と考えが合わなくなり、土佐勤王党を脱退します。
当時、土佐藩の政治の中心となっていた「吉田東洋」(よしだとうよう)らは開国を目指し、江戸幕府と朝廷が協力する「公武合体」を推進しており、土佐勤王党の理想とは真逆。尊王攘夷の姿勢を徹底する武市瑞山は、1862年(文久2年)、土佐勤王党の党員らに命じて吉田東洋を暗殺します。そののち、藩内の人事を刷新して藩政を掌握すると、土佐勤王党は16代藩主「山内豊範」(やまうちとよのり)を擁して京都へと進出しました。
京都で武市瑞山は、土佐藩の他藩応接役として多くの志士達と交流。土佐藩主の名で朝廷への建白書を起草するなど工作の甲斐あって、朝廷は攘夷路線を決定します。将軍後見役の「一橋慶喜」(ひとつばしよしのぶ:のちの江戸幕府15代将軍徳川慶喜)はこれを覆そうと画策しますが、武市瑞山は「天誅」(てんちゅう:天罰)や「斬奸」(ざんかん:悪人を斬り殺すこと)と称して、岡田以蔵や「田中新兵衛」(たなかしんべえ)らを刺客とし、佐幕派(江戸幕府を支持し、存続させようとする勢力)の人物を次々に暗殺しました。これら尊王攘夷派のテロ行為は、京都の治安悪化を招いていきます。
武市瑞山は長州藩・薩摩藩(現在の鹿児島県鹿児島市)の尊王攘夷派とともに、勅使として江戸幕府に正使「三条実美」(さんじょうさねとみ)、副使「姉小路公知」(あねがこうじきんとも)らの尊王攘夷派公卿を派遣することにも成功。姉小路公知と共に、武市瑞山も江戸幕府14代将軍「徳川家茂」(とくがわいえもち)に拝謁しています。
1863年(文久3年)1月、武市瑞山は藩士として白札から上士格留守居組に昇格。3月には京都留守居加役となりました。これは、過激化していく土佐勤王党の尊王攘夷運動を危惧し、そこから武市瑞山を引き離すための土佐藩前藩主・山内容堂の策略だったとも考えられています。
土佐藩の前藩主で公武合体派の山内容堂は、1863年(文久3年)4月に謹慎を解かれ、土佐国に帰国していました。武市瑞山は同志・久坂玄瑞の反対を振り切り、危険を承知で土佐藩に帰国。不仲である薩摩藩と長州藩を和解させるための調停案を、山内容堂に決裁してもらおうとしたのです。しかし、土佐勤王党の台頭を快く思わない山内容堂は、勤王運動の一環で強引な藩制改革を企てた武市瑞山の側近達を、同年6月に切腹処分にしました。
そののち同年8月には、会津藩(現在の福島県西部と新潟県・栃木県の一部)と薩摩藩による、急進的な尊王攘夷派の公家と長州藩を朝廷から一掃するクーデター「八月十八日の政変」が京都で勃発。これにより政界の中心にあった長州藩は失脚し、日本の政治は勤王思想から公武合体思想に方針転換したのです。
八月十八日の政変後、土佐藩内の勤王派の勢いは急激に失速しました。山内容堂による弾圧を受け、ついに9月には、武市瑞山も他の土佐勤王党の党員とともに逮捕・投獄されます。
1864年(元治元年)、土佐藩の「後藤象二郎」(ごとうしょうじろう)が、大監察の職に就き、自身の義理の叔父・吉田東洋暗殺事件の調査を開始。武市瑞山は、獄中での1年半、まだ捕まっていない勤王党の党員を守るため、吉田東洋の暗殺などへの関与を一貫して否定し続けました。しかし、武市瑞山の指示により多くの暗殺を実行した岡田以蔵が土佐藩に捕縛されると、岡田以蔵は拷問に耐え切れず、党の活動内容や暗殺事件の真相、武市瑞山との関係について白状したのです。
岡田以蔵の自供で罪状が明らかになったあとも、武市瑞山本人は最後まで吉田東洋の暗殺を否定。岡田以蔵の自供が本物だと確証のもてない薩摩藩は、この件を罪状に入れられず、武市瑞山には「君主への不敬行為」という罪状で切腹を命じました。
1865年(慶応元年)閏5月11日、武市瑞山は、苦痛のあまり戦国時代以来誰も実行していないとされる壮絶な「三文字切腹」(腹を3度横に斬る切腹)を果たし、その覚悟と気概を見せて亡くなったとされています。享年36でした。
そののち、武市家の家禄は没収となりましたが、明治維新後、山内容堂は武市瑞山を処刑したことを何度も後悔したと伝えられています。