「橋」は、池や小川を渡るための移動手段としてだけではなく、庭園の景観を構成する重要な要素です。庭園内に橋を設けることで、風景に変化が生まれ、訪れる人に季節の移ろいや自然との調和を感じさせることができます。「日本庭園の構成要素『橋』」では、日本庭園における橋の役割や種類、橋のある代表的な日本庭園をご紹介しましょう。
日本庭園における橋には、様々な役割があります。それぞれ、詳しく見ていきましょう。
日本庭園における橋の役割
橋は、特に「池泉回遊式庭園」(ちせんかいゆうしきていえん)などにおいて、欠かせない構成要素のひとつです。池や小川を安全に渡るための実用的な役割を果たします。訪れる人は、橋を渡りながら、庭園内を回遊でき、様々な角度から風景を楽しむことが可能です。橋の位置や形状は、計画的に配置されている場合が多く、歩く人の視線や足取りを自然と誘導する工夫もなされています。
仏教思想が反映された「浄土式庭園」(じょうどしきていえん)の場合、橋は単なる構造物ではなく、悟りや救済へ至る道のりを象徴しています。浄土式庭園における橋は、「此岸」(しがん:この世)から「彼岸」(ひがん:あの世)を隔てる「三途の川」を渡るための象徴的な移動手段とされ、橋を渡るという行為自体が、現世の煩悩や苦しみから離れ、清らかな浄土の世界へ向かう旅を表現。また、橋を渡り切った先には、極楽浄土の理想的な世界を具現化した、金堂や美しい庭園が広がります。
このように浄土宗などの影響を受けた庭園では、橋は浄土への入口として機能し、来訪者に神聖な空間への移行を感じさせる役割があるのです。
庭園における橋は、来訪者の視点や風景の見え方に変化をもたらすことができます。橋の大きさや形状によって、遠景の山や建物、近景の石組、植栽などが異なって見え、庭園の景観を新たな視線から楽しむことが可能です。橋を渡り終えたあとには、さらに新しい風景が視界に広がるため、庭園全体を歩きながら、探索することができます。
日本庭園には様々な種類の橋があります。橋の素材、形状・構造に分類して解説しましょう。
「土橋」(どばし)は、木の橋に土を敷き詰めて整えた橋のことです。丸太を並べただけの橋面の場合、そのままではでこぼこしていて歩きにくいため、へこんだ部分に土を詰めて平らにして、通行しやすくする工夫がなされています。
江戸時代までの日本では、ほとんどの橋が土橋でした。なお、城における土橋は、堀を横断する通路として造られた土の堤防のことで、川に架けられる土橋と異なります。
土橋
「木橋」(もくきょう)は、主な構造部材において木材を用いて造った橋のことです。古くは、人が川や谷を渡るために、1本の木で造った丸木橋や舟橋などがありました。木橋は、素材そのものの美しさが自然の景観と調和していることが特徴です。
第二次世界大戦前までは、木橋が主流でしたが、その後、コンクリートや鉄製の橋が増え、木橋は減ってきました。現在では、「集成材」(小さな木材をつないで造る木質の材料)などを用いて造る木橋が、簡易な橋や仮設の橋として使用されています。
木橋
「平橋」(たいらばし)は、橋の上部が平らで、まっすぐな形状をした橋のことです。橋面に傾斜や反りがなく、水平に近い構造のため、通行しやすいのが特徴。歩行者だけではなく、車椅子、高齢者なども安全に渡ることができ、実用性の高い橋として、様々な場面で使用されます。
平橋は、都市部の道路、公園、公共施設など日常生活に密着した場所に数多く設置。橋としての機能を果たしながら、周囲の景観と調和しやすいため、控えめでシンプルなデザインが求められる場所に適しています。
平橋
「反橋」(そりはし)は、橋の中央が高く、橋全体がアーチ状に大きく反り上がった橋のことです。橋の形状が太鼓の胴に見えることから、「太鼓橋」(たいこばし)と呼ばれることも。主に神社や日本庭園など神聖で格式のある空間に設けられており、実用性よりも象徴性と景観美を重視しています。
特に神社に設置される太鼓橋は、俗界と神域を隔てる結界的な意味があり、橋を渡ることで、神聖な空間へ入っていくと言う儀式的な役割を担っているのです。
反橋・太鼓橋
国内には、橋の架けられている庭園が数多く存在します。なかでも代表的な日本庭園をご紹介しましょう。
六義園(千鳥橋)
「六義園」(りくぎえん:東京都文京区)は、江戸時代を代表する「回遊式築山泉水庭園」(かいゆうしきつきやませんすいていえん)のひとつです。江戸幕府5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)の側用人だった大名「柳沢吉保」(やなぎさわよしやす)によって造園されました。
六義園は、「古今和歌集」をはじめとする詩歌などに詠まれた景勝地を連想させる景観構成が特徴的で、園内には池を中心に「中島」(なかじま)や「浮島」(うきしま)といった島が点在し、それらをつなぐ多くの橋が設けられています。
なかでも「千鳥橋」(ちどりばし)、「山陰橋」(やまかげのはし)、「藤波橋」(ふじなみのはし)、「白鷗橋」(かもめのはし)は、六義園を代表する土橋として有名です。これらの橋は「六義園八十八境」(りくぎえんはちじゅうはっきょう)として数えられ、庭園の景観に調和するように造られています。
栗林公園(偃月橋)
「栗林公園」(りつりんこうえん:香川県高松市)は、6つの池と13の築山を有する「回遊式大名庭園」です。江戸時代初期、この地の豪族「佐藤道益」(さとうどうえき)によって作庭されたのがはじまり。その後、1642年(寛永19年)に「松平頼重」(まつだいらよりしげ)が「讃岐国」(さぬきのくに:現在の香川県)高松藩の初代藩主に就任した頃から本格的に整備されます。そして、約100年の歳月をかけ、1745年(延享2年)、高松藩5代藩主「松平頼恭」(まつだいらよりたか)のときに完成しました。
庭園内には、大小14の木橋がありますが、なかでも、「偃月橋」(えんげつきょう)は、長さ約17.5m、幅約2.6mにも及ぶ園内で一番大きな木橋として有名です。偃月橋は、池に映る橋の形が、水面に映る「弓張り月」(ゆみはりつき:半月[偃月]のこと)に似ていることが名前の由来。なお、偃月橋は、1700年(元禄13年)に作成された絵図「御林御庭之図」(ごりんおにわのず)に描かれており、栗林公園の長い歴史とともに存在してきた橋です。
兼六園(黄門橋)
「兼六園」(けんろくえん:石川県金沢市)は、国の特別名勝に指定されている池泉回遊式庭園です。「偕楽園」(かいらくえん:茨城県水戸市)、「岡山後楽園」(おかやまこうらくえん:岡山県岡山市)と並び、「日本三名園」のひとつとして知られています。
兼六園は、1676年(延宝4年)、加賀藩5代藩主「前田綱紀」(まえだつなのり)が、居城「金沢城」に面した地に別荘を建て、その周囲を庭園化したのがはじまりです。
兼六園には、様々な名所があり、「徽軫灯籠」(ことじとうろう:雪見灯籠が変化した灯籠。二股の脚が琴の糸を支える琴柱[ことじ]に似ていることが名前の由来)や冬の風物詩「唐崎松」(からさきのまつ)の雪吊りなどが有名です。
また、庭園には、「霞ヶ池」(かすみがいけ)、「瓢池」(ひさごいけ)など、いくつもの池が点在し、様々な橋が架かっています。なかでも「黄門橋」(こうもんばし)は、「榮螺山」(さざえやま)から噴水へ向かう途中の小川に架けられた長さ約6m、幅約1mの石橋です。金沢市で採掘される「青戸室石」(あおとむろいし)を使用したこの石橋は、1枚の石に立体感を持たせることで、まるで2枚の石を組み合わせたように見える工夫が施されています。
侵雪橋
「渉成園」(しょうせいえん:京都市下京区)は、真宗大谷派の本山「東本願寺」の飛地境内地(とびちけいだいち:宗教活動のために使用される施設)にある仏寺庭園です。東本願寺の13代「仙如上人」(せんにょしょうにん)が、江戸幕府3代将軍「徳川家光」(とくがわいえみつ)から土地の寄進を受け、1653年(承応2年)に自身の隠居先として、文人で造園家であった「石川丈山」(いしかわじょうざん)に作庭させたことが、渉成園のはじまりとされています。
なお、渉成園という名前は、中国の詩人「陶淵明」(とうえんめい)の「帰去来辞」(ききょらいのじ)にある「園日渉而以成趣」(園、日に渉って以って趣を成す)に由来。また、渉成園は、庭園の周囲に「枳殻」(からたち/きこく:ミカン科の低木)を生垣として植栽したことから、「枳殻邸」(きこくてい)と呼ばれています。
園内には、「渉成園十三景」と名付けられた建物や風景が数多く点在。なかでも庭園の約6分の1を占める「印月池」(いんげつち)の西北岸に架けられた「侵雪橋」(しんせつきょう)は有名です。この侵雪橋は、渉成園のほぼ中央に位置する木造の反橋で、回遊路の一部になっています。儒学者「頼山陽」(らいさんよう)は「渉成園記」(しょうせいえんき)の中で、雪の積もった侵雪橋のありさまを「玉龍」(ぎょくりゅう)に例えて表現しました。
京都御所(欅橋)
「京都御所」(きょうとごしょ:京都市上京区)は、かつて天皇が居住した皇居であり、現在も歴史と格式を感じさせる建物や庭園が残されています。
敷地内には、様々な名所がありますが、なかでも「小御所」(こごしょ)の東側に位置する「御池庭」(おいけにわ)が人気です。この庭は、豊臣政権の五奉行のひとり「前田玄以」(まえだげんい)が作庭し、大名茶人「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)が1606年(慶長11年)に改修した池泉回遊式庭園。池には、3つの中島があり、石橋や木製の橋が架けられていますが、とりわけ注目されているのが、太鼓橋の形式となっている「欅橋」(けやきばし)です。この橋は、造られた当初は総欅造りの木橋でしたが、現在は欄干のみが欅で、その他の部分は「花崗岩」(かこうがん)が使用されています。
なお、この欅橋は、1975年(昭和50年)にイギリスの「エリザベス女王」が来日の際に、この橋の上から鯉に餌を与えたエピソードが有名です。
小石川後楽園(八橋)
「小石川後楽園」(こいしかわこうらくえん:東京都文京区)は、敷地面積約7haを誇る回遊式築山泉水庭園です。1629年(寛永6年)、「水戸徳川家」の初代藩主「徳川頼房」(とくがわよりふさ)によって、江戸中屋敷(のちの上屋敷)の庭として築かれ、のちに2代藩主「徳川光圀」(とくがわみつくに)の代に儒教思想や中国趣味を取り入れて改修されました。作庭には、京都の庭師「徳大寺左兵衛」(とくだいじさへえ)が携わり、江戸時代の大名庭園として、現存しています。
小石川後楽園には、様々な名所が点在。なかでも、琵琶湖を表現した大泉水があり、中央には、仙人が住むとされる理想郷「蓬莱島」(ほうらいじま)や徳大寺左兵衛の名前にちなんだ巨石「徳大寺石」(とくだいじいし)があることで有名です。
また、水路に架けられている八橋は、この庭園の見どころのひとつ。斜めに並んだ複数の橋板が特徴的です。八橋の周辺では、春には藤の花、夏にはカキツバタ、秋にはヒガンバナが咲き誇り、季節の移ろいとともに風情ある景色を楽しめます。