日本庭園の作庭家

千利休が作庭した日本庭園「大徳寺 黄梅院庭園」
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千利休が作庭した日本庭園「大徳寺 黄梅院庭園」 千利休が作庭した日本庭園「大徳寺 黄梅院庭園」
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日本庭園の三大様式のひとつ「露地」(ろじ:茶庭[ちゃてい]とも言う)の原型を生み出したのは、安土桃山時代に活躍した茶人「千利休」です。「侘び茶」(わびちゃ)を普及させながら多くの茶室や露地を手がけ、茶の湯のみならず日本庭園の在り方にも大きな影響を及ぼしました。しかし、千利休が手がけた庭園のうち、現存しているものは少数です。千利休の作庭とされている「大徳寺 黄梅院庭園」(だいとくじ おうばいいんていえん)について、千利休の生涯などとともに解説します。

茶人「千利休」

茶道

茶道

千利休は、茶の湯を芸術の域に発展させた人物です。1522年(大永2年)、和泉国(現在の大阪府南部)の堺の商家に生まれ、17歳から茶の湯に傾倒。そのあと、堺を代表する豪商であり茶人の「武野紹鷗」(たけのじょうおう)に師事すると、質素な風情に美を見出す新たな茶の湯の美意識を模索しました。1544年(天文13年)頃からは茶会もたびたび催し、堺を代表する茶人として名を馳せていったのです。

やがて1569年(永禄12年)頃に「織田信長」が堺を支配下に治めると、千利休は茶頭(さどう:茶道で主人に仕える家臣)に抜擢され、「会合衆」(えごうしゅう:都市の自治において指導的役割を担う組織及び構成員)の一員になります。さらに「本能寺の変」以後は「豊臣秀吉」に召し抱えられると、茶頭としてだけでなく側近としても活躍。106代「正親町天皇」(おおぎまちてんのう)から「利休」の号を賜るほど名声を高めたのです。

千利休は、質素な美を重視する侘び茶を提唱しました。1582年(天正10年)、豊臣秀吉の命令で「待庵」(たいあん:京都府乙訓郡大山崎町。別名は妙喜庵[みょうきあん])を創建することになったとき、千利休は武野紹鷗のもとで学んだ茶室の一様式「草庵式」(そうあんしき)を昇華させ、たった2畳の茶室を造設。侘び茶の精神に基づき、極限まで素朴さを追求したのです。その大胆な試みは豊臣秀吉に受け入れられ、1584年(天正12年)には「大坂城」(大阪市中央区)内にも2畳の茶室を建設。さらに茶室への通路にも侘び茶の精神を反映させ、露地と呼ばれる庭園形式を生み出しました。以降、露地は、茶の湯には欠かせない、茶室用の庭園となっていったのです。

そのあと、豊臣秀吉のもとで大きな影響力を持つようになった千利休は、大名からの内密な相談ごとを一手に引き受けるほど、豊臣政権の中枢で活躍します。しかし、1591年(天正19年)に突如失脚することとなり、豊臣秀吉の命により切腹しました。

そのあと、千利休が提唱した茶の湯は、弟子達によって継承されます。なかでも「利休七哲」(りきゅうしちてつ)と呼ばれる高弟のひとりだった「古田織部」(ふるたおりべ)は、侘び茶を「きれいさび」と呼ばれる美意識へと進化させ、日本庭園の作庭にも影響を及ぼしたのです。

千利休の露地(茶庭)

露地

露地

千利休が手がけた露地の特徴は、大きく2つあります。ひとつ目は、人工的な要素が少ないことです。露地に広がる空間をできる限り自然環境に近づけるため、庭園に用いる素材はありのままが基本。例えば石は、川の流れによって丸くなった、色味の少ない自然石が多用されました。さらに、手を洗うために茶室の前に設けられる「手水鉢」(ちょうずばち:別名は蹲踞[つくばい])は主に自然石をくり抜いて作られ、茶室へと続く「延段」(えんだん:石組によって作られた細長い飛石)も自然石です。

ふたつ目は、派手な要素を取り入れないようにしたこと。特に色味にこだわり、茶室はもちろん入口に設けられる「露地門」(ろじもん)や、客同士が待ち合わせるための待機場「腰掛」(こしかけ:別名は待合[まちあい])にも古色が用いられました。

また、露地に植えられた木々の色合いも、質素を追求。こうした自然本来の景観美を凝縮した空間が、侘び茶における美の神髄なのです。

千利休が作庭した日本庭園「大徳寺 黄梅院庭園」

大徳寺 黄梅院の成り立ち

大徳寺 黄梅院

大徳寺 黄梅院

1562年(永禄5年)、織田信長が父「織田信秀」(おだのぶひで)を供養するために創建したのが「大徳寺 黄梅院」(だいとくじ おうばいいん:京都市北区)の原型です。当時は「黄梅庵」(おうばいあん)と名付けられた小さな寺院でした。

織田信長が本能寺の変で命を落とすと、豊臣秀吉が大徳寺で織田信長の葬儀を実施。その際「塔所」(とうじょ:墓所のそばに構える寮舎)として黄梅院が増築され、さらに豊臣家家臣の「小早川隆景」(こばやかわたかかげ)が境内の堂宇を整備しました。1589年(天正17年)には「大徳寺 黄梅院」に改名し、千利休が作庭を担当したのもこの頃と言われています。そのあと、小早川家の宗家にあたる毛利家(もうりけ)が寺院を庇護。江戸時代以降は、毛利家の菩提寺となりました。

大徳寺 黄梅院庭園の特徴

大徳寺黄梅院の境内には、複数の日本庭園が設けられています。本堂前庭に広がる枯山水庭園の「破頭庭」(はとうてい)、本堂の北側に位置する枯山水庭園の「作仏庭」(さぶつてい)、本堂と庫裡の間に位置する坪庭「閑坐庭」(かんざてい)、書院「自休軒」(じきゅうけん)の眼前に設けられた「直中庭」(じきちゅうてい)などです。

このうち直中庭は、千利休が62歳のときに手がけた日本庭園だと言われています。苔が一面に張られ、そのなかに自然石を活かした飛石を配置。さらに庭園の奥側には「不動三尊石」(ふどうさんぞんせき:不動明王・矜伽羅童子[こんがらどうじ]・制吒迦童子[せいたかどうじ]を模した石組)がそびえ、書院のそばには苔むした石灯籠が置かれています。

これらの石組と庭木の対比が、景観を引き締める役割を果たしているのです。特に書院から眺めると、より山里の風情が堪能できるよう設計されています。ちなみに庭園の一角には茶室の「一枝庵」(いっしあん)がありますが、建てられたのは1999年(平成11年)。千利休を祖とする茶道家元「裏千家」(うらせんけ)が手がけた建物で、千利休の時代には存在しませんでした。

直中庭の個性的な点は、豊臣秀吉の軍旗に用いられていた「瓢箪」(ひょうたん)型の池泉が広がっていることです。水のない空池になっていますが、豊臣秀吉の権威を象徴。さらに、池のそばには豊臣家の家臣だった「加藤清正」(かとうきよまさ)が、「朝鮮出兵」(ちょうせんしゅっぺい)の際に持ち帰ったと伝わる朝鮮灯籠も置かれています。

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