日本庭園の作庭家

小堀遠州が作庭した日本庭園
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小堀遠州が作庭した日本庭園 小堀遠州が作庭した日本庭園
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江戸時代に入ると多くの大名庭園が造られるようになり、日本の造園技術は飛躍的に向上しました。その先駆けとなった人物が、作庭家であり大名茶人の「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)です。「綺麗さび」と呼ばれる美意識を重視し、その作風は江戸時代に隆盛した「後期式枯山水庭園」(こうきしきかれさんすいていえん)にも影響を及ぼしました。小堀遠州の生涯や作風、小堀遠州が手がけた代表的な日本庭園を7つ紹介します。

江戸時代の大名茶人「小堀遠州」

露地

露地

小堀遠州は、1579年(天正7年)に「豊臣秀長」(とよとみひでなが)の家臣であった「小堀正次」(こぼりまさつぐ)の嫡男として生まれました。「遠州」は通称で、本名は「小堀政一」(こぼりまさかず)。幼少期から小姓として給仕などを務め、茶聖「千利休」とも交流しています。さらに1595年(文禄4年)、「豊臣秀吉」直参の家臣になると、大名茶人の「古田織部」(ふるたおりべ)に師事。茶の湯の薫陶を受けて、高弟のひとりと見なされるようになりました。

豊臣秀吉亡きあとは、武将として「徳川家康」に仕え、「関ヶ原の戦い」後に父・小堀正次が「備中松山城」(びっちゅうまつやまじょう:岡山県高梁市)を拝領。やがて1604年(慶長9年)に父・小堀正次の遺領を継いで12,460石の大名に昇進します。

一方茶の湯では、古田織部が生み出した「綺麗さび」の美意識を発展させ、「遠州流」(えんしゅうりゅう)と称される独自の茶道を大成させました。千利休の「侘び茶」(わびちゃ)がありのままの自然に美を見出したのに対し、遠州流は、枯れていく美(寂び)と華麗さを両立させます。

日本庭園の造成に手腕を発揮するようになったのは、1608年(慶長13年)に「駿府城」(すんぷじょう:静岡県静岡市)の作事奉行を務めてからです。茶の湯で培った「綺麗さび」の精神を「露地」(ろじ:茶庭[ちゃてい]とも言う)や日本庭園にも活かし、誰が見ても美しいと思える「客観性の美」や「調和の美」を表現。その作風は多くの公家や大名から支持され、小堀遠州は茶人としてだけでなく、名作庭家としても広く知られるようになりました。

後年、小堀遠州は、寛永年間(1624~1644年)に生まれた多くの文化サロンの中心人物となります。「桂離宮」(かつらりきゅう:京都市西京区)をはじめとする日本庭園を次々と手がけ、敷地全体で枯山水を表現する「後期式枯山水庭園」の普及に大きな役割を果たしました。

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小堀遠州が手がけた日本庭園

円通院(宮城県松島町)

円通院

円通院

円通院」(えんつういん)は、日本三景のひとつ「松島」にある寺院で、「伊達政宗」の孫「伊達光宗」(だてみつむね)の菩提寺です。境内には石庭の「雲外天地の庭」(うんがいてんちのにわ)、バラが美しい「白華峰西洋の庭」(びゃかほうせいようのにわ)、林の中に広がる自然庭園の「三慧殿禅林瞑想の庭」(さんけいでんぜんりんめいそうのにわ)、本堂「大悲亭」(だいひてい)に面した「遠州の庭」(えんしゅうのにわ)が存在し、このうち「遠州の庭」が、小堀遠州の手によるものとなっています。

遠州の庭は、もともとは伊達藩(現在の宮城県仙台市)の江戸屋敷に作庭されたものでしたが、のちに移設。池の周りに苔を敷き、池に覆い被さるように庭木を配すことで、静寂を際立たせています。特に紅葉の美しさで評価の高い日本庭園です。

浅草寺 伝法院庭園(東京都台東区)

伝法院

伝法院

伝法院庭園(でんぼういんていえん)は、寛永年間(1624〜1644年)に、「浅草寺」(せんそうじ)の本坊である「伝法院」に造られた庭園です。敷地面積は約3,700坪に及び、中心には広大な池泉、その周りには「護岸石組」(ごがんいしぐみ:池や流れの水際に並べられた石組)を設け、園内随所に石塔や石灯籠が置かれました。

伝法院庭園は、石組の重厚さに特色があります。特に園内奥に設けられた「枯滝石組」(かれたきいしぐみ)は、荒々しい滝の景観を表現し、枯滝中央に「三尊石」(さんぞんせき)を形成。滝下に配した「州浜」(すはま)と相まって、美しい景観を生み出しています。園内は「苑路」(えんろ)が設けられているため、歩きながらじっくり楽しめる点も魅力です。

龍潭寺(静岡県浜松市)

龍潭寺

龍潭寺

龍潭寺」(りょうたんじ)は、733年(天平5年)に「行基」(ぎょうき)の手で創建されました。徳川家の重鎮「井伊氏」(いいし)の菩提寺でもあり、園内には「井伊直政」(いいなおまさ)を育て、女城主としても名を馳せた「井伊直虎」(いいなおとら)の墓所などが残っています。

龍潭寺の庭園が造られたのは江戸時代初期とされ、様式は本堂からの定点鑑賞を旨とした池泉鑑賞式庭園です。池の奥に築山が配され、随所に石組や刈り込まれた庭木が点在。また、中央には守護石、左右に仁王石、池の手前には座禅をするための礼拝石が置かれています。あえて明るい色味の地元石を用いたり、四季折々に色付く庭木を植えたりしており、華やかな趣が漂う日本庭園です。

教林坊(滋賀県近江八幡市)

教林坊」(きょうりんぼう)は、605年に「厩戸王」(うまやどのおう:聖徳太子[しょうとくたいし])が創建しました。寺名は聖徳太子が林の中で説法を行ったという伝説から取られ、本尊には聖徳太子作と伝わる石仏「赤川観音」(あかがわかんのん)が祀られています。近江国(現在の滋賀県)屈指の古刹として信仰を集めたものの、戦国時代に「織田信長」が行った比叡山焼き討ちの影響を受けて衰退。1585年(天正13年)に再興され、その後江戸時代に入ってから小堀遠州の手によって日本庭園が整備されました。

教林坊で特徴的なのは、境内が苔と石組に覆われていることです。池泉を囲むように苔むした自然石が配され、岩の凹凸まで緑一色。一方、秋になると落葉樹が深紅に染まり、緑と朱色の鮮やかなコントラストが現れます。色彩によって侘び寂びの風情を感じられる名庭です。

桂離宮(京都市西京区)

桂離宮

桂離宮

桂離宮は、1615年(元和元年)から約50年の歳月をかけて造られた「八条宮家」(はちじょうのみやけ)の別邸で、日本庭園の最高峰とも称されています。作庭は小堀遠州が手がけ、回遊式庭園の先駆けともされる傑作庭園で、20世紀を代表する建築家「ブルーノ・タウト」が絶賛したことでも有名です。

園内には複雑な「汀線」(ていせん:池と陸の境界線)を描く池泉が配され、周りに日本各地の名所や自然風景を表現して、旅路の風情をもたせています。

仙洞御所(京都市上京区)

仙洞御所

仙洞御所

「仙洞御所」(せんとうごしょ)は、豊臣秀吉の妻「高台院」(こうだいいん)の屋敷跡を利用して造営された「後水尾上皇」(ごみずのおじょうこう:108代[後水尾天皇]の退位後の号)の御所です。園内には広大な池泉を中心とした回遊式庭園が設けられ、1630年(寛永7年)に完成しました。

特徴的なのは、池泉が直線的な「切石」(きりいし)の護岸に囲まれていることです。小堀遠州は「綺麗さび」の美を生み出すなかで、直線と曲線を対比させました。池泉の造形には、小堀遠州ならではの空間設計を垣間見ることができます。

二条城 二の丸庭園(京都市中京区)

二条城

二条城

二条城」(にじょうじょう)二の丸庭園は、徳川家康が築城した二条城内にある日本庭園で、1626年(寛永3年)の後水尾天皇の「行幸」(ぎょうこう:天皇が内裏から外出すること)に際して大改修。その際、小堀遠州が作事奉行を務め、書院の着座位置から鑑賞することを意識した「書院造庭園」(しょいんづくりていえん)に仕上げました。

池泉の中央に「蓬莱島」(ほうらいじま)、左右には「鶴亀島」(つるかめじま)を配し、池泉の汀線には多数の「景石」(けいせき:鑑賞用の自然石)や「滝石組」(たきいしぐみ:滝を表現した石組)を配置。細部に至るまで、変化に富んだ景観を生み出す意匠が散りばめられています。また、庭木に色彩を添えるため、輸入品のソテツなどを植え、重厚感と華麗さを両立させているのが特徴です。

小堀遠州が作庭した日本庭園
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有名な日本庭園の作庭家

有名な日本庭園の作庭家
日本庭園の発展は、各時代に活躍した作庭家の試行錯誤によって推し進められました。禅僧で歌人でもあった作庭家「夢窓疎石」(むそうそせき)、「露地」(ろじ:茶庭[ちゃてい]とも言う)を生み出した「千利休」、「綺麗寂び」と呼ばれる洗練された美意識を追求した「小堀遠州」(こぼりえんしゅう)などが、庭園文化を牽引。また、明治時代以降は「小川治兵衛」(おがわじへえ)、「重森三玲」(しげもりみれい)、「飯田十基」(いいだじゅうき)らが独自の境地を切り拓きました。日本庭園史を語る上で欠かせない6名の生涯と、手がけた庭園の特徴を紹介します。

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夢窓疎石が作庭した日本庭園

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飯田十基が作庭した日本庭園

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大正時代から昭和時代にかけて活躍した作庭家「飯田十基」(いいだじゅうき)は、「雑木の庭」(ぞうきのにわ)と呼ばれる独自の様式を生み出した人物です。気取りのない身近な樹木を用いて、里山の雑木林を思わせる景観を作り出しました。飯田十基の生涯や、雑木の庭の特徴、代表作として知られる「等々力渓谷公園 日本庭園」(とどろきけいこくこうえん にほんていえん:東京都世田谷区)の意匠や見どころについて解説します。

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