第8章 幕藩体制の動揺

高校幕政の改革
/ホームメイト

<span style=高校幕政の改革"> <span style=高校幕政の改革">
文字サイズ

「徳川吉宗」が江戸幕府第8代将軍に就くと、自ら政治改革を行います。倹約令によって財政を引き締め、江戸の町における町火消し・小石川養生所の設置など都市計画も実施。法制度では基本的法典を定め、判例に基づく司法判断が可能となりました。その一方村落では、有力農民の台頭によって貧富の格差が生まれ、都市部への農民が流入。一揆も多発し世情不安がたちこめます。のちに「田沼意次」が再改革に乗り出しますが、政治腐敗が横行。それにより失脚するのです。

享保の改革

1716年(享保元年)に江戸幕府第7代将軍「徳川家継」(とくがわいえつぐ)が8歳で死去すると、初代から続いていた徳川氏の本家血筋が絶えます。そのため、紀伊徳川家の「徳川吉宗」(とくがわよしむね)が江戸幕府第8代将軍の座に就き、29年間にわたって様々な政策を進めました。この徳川吉宗が行った一連の政策は、「享保の改革」(きょうほうのかいかく)と呼ばれています。

将軍自らが改革の先頭に立つ

徳川綱吉_

徳川綱吉

徳川吉宗は、江戸幕府第5代将軍「徳川綱吉」(とくがわつなよし)から続いていた側近による政治を廃止し、江戸幕府将軍の意思を直接政治に反映させる仕組みを整えました。

政策を進めるにあたっては、従来の幕臣の家系ではなく、地位の低い「大岡忠相」(おおおかただすけ)、代官・農政家の「田中丘隅」(たなかきゅうぐ)らを登用します。

また、「荻生徂徠」(おぎゅうそらい)などの儒学者達にも協力を仰ぎ、徳川吉宗自らが改革の指揮を執る体制を築き上げたのです。

第1の柱「財政再建」

享保の改革では、最優先事項として江戸幕府内における財政政策が進められます。浪費と贅沢品の使用を禁じた「倹約令」(けんやくれい)によって支出を抑えるとともに、諸大名から1万石につき100石を上納させる「上げ米」(あげまい)を実施。それに伴い諸大名の負担となっていた参勤交代も緩めました。徳川吉宗は、年貢収入を幕府財政の土台にすることを目指し、実際に年貢収入が増えたことで、赤字続きだった幕府財政はやや立ち直ったとされています。

さらに、年貢収入が生産量に左右される「検見法」(けみほう)から、過去の収穫高をもとに一定期間の年貢を計算する「定免法」(じょうめんほう)を採用。綿作などの新たな商品に目を付けたり、商人資本で新田開発を進めたりして、年貢の増収を目指しました。

財政再建の道筋が見えはじめた1728年(享保13年)には、江戸幕府将軍家が参拝する行事である「日光社参」(にっこうしゃさん:日光東照宮[にっこうとうしょうぐう]への参拝)を65年ぶりに命じ、江戸幕府将軍の権威を示します。同時期に上げ米制度も廃止され、参勤交代ももとの仕組みへ戻されました。

第2の柱「都市政策」

小石川養生所の井戸

小石川養生所の井戸

享保の改革では、旗本から「町奉行」(まちぶぎょう:城下町の行政、警察機関)となった、大岡忠相が中心となり、江戸の都市政策も進められます。

以前から江戸は大火に見舞われることが多かったため、「広小路」(ひろこうじ:幅の広い街路)や「火除地」(ひよけち:延焼防止の空き地)など、防火設備が設けられました。

また、火事の被害を抑える「町火消」(まちびけし:消防団)が組織されたのもこの時代です。

さらに江戸の町内には、庶民の意見を拾い上げる目的で、意見を投げ入れる「目安箱」(めやすばこ)も設置。貧民のための医療施設「小石川養生所」(こいしかわようじょうしょ:東京都文京区)は、この目安箱がきっかけで造られたものでした。

法制度の改革

徳川吉宗は法制度改革にも力を入れます。1719年(享保4年)に、「相対済し令」(あいたいすましれい)を発布。この相対済し令とは、金銭問題に関して江戸幕府の「評定所」(ひょうじょうしょ:裁判所)では取り扱わず、当事者同士で解決するように求めたものです。

また、徳川吉宗の政権末期には基本法典「公事方御定書」(くじかたおさだめがき)を制定し、判例に基づく正しい司法判断ができる体制を整えました。

さらに、「御触書」(おふれがき:江戸幕府が一般の人々に対して法令の内容を伝えた物)をまとめた「御触書寛保集成」(おふれがきかんぽうしゅうせい)の作成を命じます。これは、江戸幕府初代将軍「徳川家康」から始まる御触書を収集及び分類した法令集で、徳川吉宗以降もたびたび編纂されました。

社会の変容

享保の改革が終わった18世紀後半に、幕藩体制は大きく変化します。都市や村の在り方も変わり、日本社会が変容を遂げました。

村では一部の百姓が力を持つように

江戸時代中期の合掌造りの家(岐阜県の白川郷)

江戸時代中期の合掌造りの家
(岐阜県の白川郷)

各地の村では、村役人として村を統括した有力農民の「名主」(なぬし)、「庄屋」(しょうや)などが「豪農」(ごうのう)として力を付けはじめ、雇った小作人に広大な農地を耕作させる「地主手作」(じぬしてづくり)と呼ばれる経営手法を取りはじめます。

また、豪農は商品作物(桑、綿など)の生産に加えて貧しい農民へ金銭の貸付を行い、質に取った農作地を集めて大地主へと成長していきました。

一方、田畑を失った農民らは、そのほとんどが職を求めて都市部へ流出。そのため、力を持たない農民と豪農との間で対立が深まりはじめます。公正な関係を求める農民らは、村役人を務める豪農の不正に反発するようになり、各地で「村方騒動」(むらかたそうどう)と呼ばれる紛争が活発になったのです。

都市部に貧しい農民が流入

都市部へ流出した農民は、小規模な「棟割長屋」(むねわりながや)に住みはじめます。城下町の外れには、こうした貧しい農民が集まり、都市部の性格を大きく変えていきました。

次第に江戸、大坂、京都の三都では「家持町人」(いえもちちょうにん:家・店と土地を持つ町人)の数が減少。都市部の住人は「地借」(じがり:敷地を借りて持ち家に住む者)や「店借」(たながり:家屋敷の一部、または全体を借りて住む者)、「商家奉公人」(しょうかほうこうにん:商家に雇われた奉公人)が大半を占めるようになります。

また、わずかな収入で暮らす庶民が急激に増加したため、都市部の生活は災害・飢饉に影響されやすくなったのです。

一揆と打ちこわし

江戸時代中期、地方での生活は藩の政策に脅かされることが多くなりました。生活に困窮した農民達は、実力行使として「一揆」を起こしはじめます。

百姓一揆の勃発

領主の政策に不満を持つ一部の農民らは、「百姓一揆」(ひゃくしょういっき)を起こして要求を突き付けます。17世紀後半からは、代表者が領主へ直訴を行う「代表越訴型一揆」(だいひょうおっそがたいっき)や、より大規模な全農民による「惣百姓一揆」(そうびゃくしょういっき)も見られました。これに対して、藩は武力をもって百姓一揆を鎮圧します。

しかし、当時は飢饉や凶作が各地で発生し、1732年(享保17年)には「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)が発生。農民は藩の厳しい弾圧に遭いながらも、飢饉などで困窮するたびに大規模な百姓一揆を起こすようになります。

飢饉が生む打ちこわし

百姓一揆の動きが活発になると、庶民が城下町の米屋などを襲撃する「打ちこわし」が多発。享保の大飢饉の翌年には、米価急騰の原因とされた、江戸の米問屋の打ちこわしが勃発しています。飢饉と打ちこわしの悪循環はさらに続き、1782年(天明2年)には数年にわたる「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)が発生。飢饉による被害の中心は東北地方でしたが、全国で百姓一揆が起こり、江戸・大坂でも激しい打ちこわしが生じています。

田沼時代

江戸幕府第10代将軍に「徳川家治」(とくがわいえはる)が就任すると、「老中」(ろうじゅう:江戸幕府将軍の補佐職)となった「田沼意次」(たぬまおきつぐ)が実権を掌握。この田沼意次の権力下にあった十数年の期間を、「田沼時代」と呼んでいます。

財政再建を商人の力で再興

江戸幕府の財政再建を任された田沼意次は、年貢増収に加えて経済活動の活発化に取り組みました。商人・職人同士のつながりを「株仲間」(かぶなかま:商工業者の組合)と見なし、株仲間から税を徴収する仕組みを作ります。

また、世の中に流通する貨幣価値を安定させるために、定量の「計数銀貨」(けいすうぎんか:重さではなく個数や額面で通用する銀貨)を鋳造。のちに二朱銀など金貨の単位を持つ計数銀貨が多く鋳造され、この政策により通貨単位が金へ統合したばかりでなく、鋳造することで通貨発行益が生じ、幕府の利益も増加したのです。また、この財政再建政策は庶民にも刺激を与え、学問・文化、芸術も発展していくことになります。

大がかりな新田開発にも着手

田沼意次は、都市部の豪商らに協力を仰ぎながら、各地の新田開発も実施。のちに断念したものの、「印旛沼」(いんばぬま:千葉県北西部)や「手賀沼」(てがぬま:千葉県北部)では大がかりな干拓工事も行われました。

また、北方探検家「最上徳内」(もがみとくない)らを派遣して、蝦夷(現在の北海道)の開発やロシア帝国の商人とも接触。商人の力を巧みに活用しながら、様々な財政再建を進めていったのです。一方、江戸幕府内では賄賂や縁故による悪政が横行。

朝廷でも118代「後桃園天皇」(ごももぞのてんのう)が急死するなど、周辺の状況は変化していきます。それに伴い、田沼意次の権力も次第に衰えていき、1786年(天明6年)に江戸幕府第10代将軍・徳川家治が死去すると、田沼意次も老中を罷免されたのです。

幕政の改革をSNSでシェアする

キャラクターイラスト
キャラクターイラスト
キャラクターイラスト

「第8章 幕藩体制の動揺」の記事を読む


宝暦・天明期の文化

宝暦・天明期の文化
「宝暦・天明期の文化」として、18世紀よりオランダの学問である「蘭学」が盛んとなり、積極的に優れた西洋文化を取り入れる動きが起こります。その一方で伝統文化を重んじる「国学」が発達し、幕府への批判精神も育まれていきました。しかし、その行き過ぎた批判思想に対して、幕府は統制を敷きます。また、庶民の間でも、教育に対する関心が高まり「寺子屋」が増加。そのような背景から「洒落本」、「滑稽本」や「川柳」など世情を写した文学が流行したのです。

宝暦・天明期の文化

幕府の衰退と近代への道

幕府の衰退と近代への道
18世紀末に「松平定信」による「寛政の改革」が行われます。国内安定を目指し、荒れた農村の復興、都市部における物価の調整、役人達の生活保障、政治批判への出版統制などを実施。しかし、庶民を縛りすぎた政策に反発が沸き上がり、松平定信は6年で退陣しました。のちの「水野忠邦」による「天保の改革」も失策に終わり、江戸幕府は着実に衰退の道を辿ります。そんななか、地方の藩では藩政改革によって国力を増大。幕府からの自立を模索し始めるのです。

幕府の衰退と近代への道

化政文化

化政文化
江戸時代末期に繁栄したのが「化政文化」でした。江戸・大坂や京都のみならず全国の庶民に普及したのが、化政文化の大きな特徴。停滞していた国学は、幕政への批判を強め「尊王攘夷運動」へと繋がります。また、各地に作られた私塾で儒学・蘭学が学ばれ、明治時代に活躍する多くの人材を輩出。一方庶民ではたびたび禁制となった滑稽本などが流行し、風景を描いた浮世絵が人気を博します。さらに歌舞伎や相撲も成熟期に入り、化政文化の一端を担ったのです。

化政文化

注目ワード
注目ワード