江戸時代

享保の大飢饉

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1732年(享保17年)に「享保の大飢饉」(きょうほうのだいききん)が発生し、西日本の諸国は、甚大な被害を受けました。享保の大飢饉は、「天明の大飢饉」(てんめいのだいききん)や「天保の大飢饉」(てんぽうのだいききん)と共に、江戸時代における三大飢饉のひとつに数えられているのです。享保の大飢饉が起こった原因や、飢饉をきっかけとして起こった「享保の打ちこわし」、飢餓から人々を救ったサツマイモについても、併せてご説明します。

享保の大飢饉が起こった主な原因と被害の規模

飢饉の前年から悪天候が続く

大飢饉が発生する主な原因となるのは、悪天候です。それは、享保の大飢饉においても例外ではなく、この大飢饉が起こる前年、1731年(享保16年)の年末頃から悪天候が続きました。

翌1732年(享保17年)、夏が近付いても気温は低いままで、悪天候が改善する気配がなかったのです。例年であれば梅雨が明ける時期になっても、雨がやむことはなく、気温も低かったため、冷害により稲がまったく育ちませんでした。

特に状況がひどかったのは、現在の中部地方や四国、九州北部に当たる地域。なかでも、瀬戸内海近くの農家が、甚大な被害を受けたと言われています。

害虫がさらに追い打ちをかける

悪天候に加えて、害虫の大量発生も、享保の大飢饉を引き起こした理由のひとつでした。稲の葉を食い荒らす害虫である、「イナゴ」や「ウンカ」などが季節風に乗り、中国や東南アジアから日本に辿り着き、大量発生して稲に多大な被害を与えたのです。

現代では、外国から日本に渡って来る害虫は、効果の高い薬剤で駆除できるため、農作物によっては、そこまで大きな影響を与えられることはありません。しかし、江戸時代当時は、害虫が発生した理由を知る術(すべ)はもちろん、対処する方法もなかったのが実情。そのため、たった一晩で、稲の葉から茎までを害虫に食べ尽くされるほどの被害が見られたのです。

享保の大飢饉における被害は、西日本を中心に発生。その死者は約12,000人、飢えに苦しんだ人は、実に2,000,000人もいたと言われています。この数字は、あくまでも江戸幕府が把握していたデータであるため、実際に亡くなった人数は、さらに多かったと推測されているのです。

享保の大飢饉が引き金となった享保の打ちこわし

享保の打ちこわし

享保の大飢饉による被害は、西日本を中心に発生していましたが、享保の大飢饉が原因となった「享保の打ちこわし」は、1733年(享保18年)に江戸で起こりました。

「打ちこわし」とは、都市に住む貧しい人が米価の引き下げを求めて、商人を襲う民衆運動のことを言います。

打ちこわしと似た民衆運動として挙げられるのが、いわゆる「百姓一揆」(ひゃくしょういっき)です。こちらも打ちこわしと同様に、自然災害や飢饉が引き金となることが多いですが、百姓一揆では、農民が年貢の減免を求めて領主に直訴、もしくは村役人らを襲いました。

映画や時代劇などでは、竹槍や斧などの武具を手に、百姓一揆や打ちこわしを行うシーンが見られますが、実際の打ちこわしには、様々なルールや秩序があったのです。

原則として、日本刀や斧などの武具を使って人を傷付けたり、物を盗んだり、放火をしたりする行為に及ぶことはなく、貯蔵されている米を撒き散らす程度だったとも言われています。

享保の打ちこわしが起きた経緯

徳川吉宗

徳川吉宗

江戸幕府は、享保の大飢饉で被害がひどかった西日本地域において、飢餓に苦しむ人を助けるために、米を分け与えました。しかし、皮肉なことにこれが原因となり、江戸では、米の価格が5倍ほどにまで値上がりしてしまったのです。

そんな中、米問屋の「高間伝兵衛」(たかまでんべえ)は、江戸幕府8代将軍「徳川吉宗」(とくがわよしむね)に協力し、米の価格の安定化を図るべく尽力していました。

ところが民衆には、高間伝兵衛が米を買い占めて、価格を釣り上げていると勘違いされ、襲われてしまいます。これが、享保の打ちこわしと呼ばれる事件です。

この打ちこわしに加わった民衆の数は、1,700人以上にも上り、高間伝兵衛の家財道具や米俵は、川に捨てられてしまったと言われています。打ちこわしの被害に遭いながらも高間伝兵衛は、自身が所持していた多量の米を放出し、米価の安定に努めました。

徳川吉宗が行った飢餓対策

サツマイモの栽培を推奨

享保の大飢饉の発生後、徳川吉宗は飢餓対策として、全国各地でサツマイモの栽培を推奨しました。サツマイモの原産地は、中央アメリカから南メキシコ周辺であり、紀元前800~1000年頃には、すでに栽培が行われていたと考えられています。15世紀になり、イタリア出身の探検家であり、航海者でもあった「クリストファー・コロンブス」が、ヨーロッパにサツマイモを持ち帰りました。

そのあと、フィリピンから中国、琉球(現在の沖縄県)を経由して、1698年(元禄11年)には薩摩国(現在の鹿児島県西部)に伝わり、日本各地で栽培されるようになります。

「サツマイモ」の名称が付けられたのも、薩摩国から本州に伝わったことが所以(ゆえん)となっており、サツマイモは、日本でも江戸時代から栽培されていた植物だったのです。

青木昆陽

青木昆陽

江戸生まれで蘭学者(らんがくしゃ:オランダ語を通じて、輸入された西洋の学問文化を研究した学者)の「青木昆陽」(あおきこんよう)は、痩せた土地でも育ち栄養価が高く、長期保存可能なサツマイモが、飢饉が発生した際の非常食として最適であることを「蕃藷考」(ばんしょこう)と題した自著にまとめ、1735年(享保20年)、江戸幕府に上書(じょうしょ:主君や貴人などに、意見を記した書状などを差し出すこと)します。

徳川吉宗は、すぐさま青木昆陽に、現在の東京都文京区にあった「小石川御薬園」(こいしかわおんやくえん:現在の東京大学大学院理学系研究科附属植物園[通称:小石川植物園])など、関東地方の施設におけるサツマイモの試作を命じました。

関東地方の気温は低く、霜が原因で最初は上手く育ちませんでしたが、青木昆陽は苦労の末に、サツマイモの栽培を成功させ、やがて全国各地で栽培されるようになったのです。

この功績により青木昆陽は、1736年(享保21年/元文元年)に「薩摩芋御用掛」(さつまいもごようがかり)を拝命し、「幕臣」(ばくしん:徳川将軍に直接仕える家臣)に就任しました。

サツマイモで被害を免れる

サツマイモは強健な性質で干ばつに強く、痩せた土地でも育てやすい植物です。享保の大飢饉でも被害に遭うことなく栽培できたため、すでにサツマイモを育てていた地域は、飢餓に苦しむことはありませんでした。

例えば、現在の愛媛県今治市に属する「大三島」(おおみしま)では、「下見吉十郎」(あさみきちじゅうろう)がサツマイモの栽培を広めていたため、享保の大飢饉の被害を免れられたと伝えられています。

また、享保の大飢饉が発生した当時、大三島を含む瀬戸内海地方が、史上最大の凶作に陥っていましたが、大三島だけは、サツマイモを栽培していたことで餓死者を出すことなく、伊予松山藩(現在の愛媛県松山市)に、余った米を献上する余裕があったほどでした。

また、のちに起こった「天明の大飢饉」と「天保の大飢饉」の際にも、サツマイモが食料として重宝され、多くの人々の命が救われたと言われています。

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