第4章 中世社会の成立

高校鎌倉文化
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鎌倉幕府の樹立により、文化面でも新たな変化が訪れます。それまでの豪華勝雅な様式とは異なり、素朴な武士の気質が反映された「鎌倉文化」が誕生。また、混乱した世相から国・貴族のための仏教ではなく、庶民のための新しい仏教「鎌倉仏教」が勃興します。なかでも鎌倉文化に強く影響を与えたのが、宋との交流によりもたらされた「禅宗」でした。厳しい戒律が武士の気風に合い、かつ禅宗寺院が鎌倉幕府から庇護されたため、多くの禅宗様建築が建立されたのです。

鎌倉文化

鎌倉幕府が存在していた12世紀末~14世紀前半にかけて成立していた文化を「鎌倉文化」と呼びます。貴族中心の政治から、武士政権へと移行したことをきっかけに日本文化は大きな変革期を迎えました。

鎌倉文化とは

鎌倉時代には、まだ公家(くげ:朝廷に仕える貴族)の影響力も残されており、平安時代に始まった国風文化の伝統が、公家達によって受け継がれていきます。その一方で、武士・庶民の価値観が反映された全く新しい文化も誕生し、次第に浸透していきました。

この新しい文化には、大きく2つの特徴があります。ひとつは、地方出身の武士による庶民的な気質が芸術へと取り入れられ、それまでの華々しい作風から素朴で生き生きとした作風へと変化したこと。そして、もうひとつは「日宋貿易」(にっそうぼうえき:宋[そう:10~13世紀の中国王朝]との貿易)が盛んに行われたことや、中国から日本へ亡命する禅僧が増えたことを背景に、宋や元(げん:13~14世紀の中国王朝)など大陸文化による影響を強く受けたことです。

鎌倉仏教

鎌倉時代初期は、争乱や自然災害などが相次ぎ、世間では社会的不安が膨れ上がっていました。人々は仏に救いを求めましたが、以前から受け継がれてきた仏教は、国家・貴族達の利益のために存在。そのため、広く庶民の心を救ってくれる新しい仏教の誕生が切望されました。そんななかで誕生したのが、「鎌倉仏教」と呼ばれた新仏教です。

まず「法然」(ほうねん)が登場し、念仏(ねんぶつ:南無阿弥陀仏[なむあみだぶつ])さえ唱えていれば誰でも極楽浄土に往生できるという「専修念仏」(せんじゅねんぶつ)の教えを説きました。のちに法然の教えは「浄土宗」(じょうどしゅう)と呼ばれて公家・武士、庶民まで広く浸透していきますが、一方で旧仏教側から強い反発を買い、法然は土佐国(現在の高知県)へ流され、法然の門弟達も処罰されることになります。

その後、越後国(現在の新潟県)へと流された法然の弟子「親鸞」(しんらん)は、常陸国(現在の茨城県)へ移って法然の教えを説くとともに、悪人こそが阿弥陀仏による救済の対象であるという「悪人正機」(あくにんしょうき)の説を強調。

この教えは多くの農民や地方武士の間で支持され、「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)として信仰されるようになりました。しばらくして登場したのが、同じく浄土宗から派生した教えを説いた「一遍」(いっぺん)です。一遍は善人や悪人、信じる・信じないにかかわらず、念仏を唱えれば誰でも極楽往生できるとの考えに至ります。

そして、念仏が書かれた札を配るとともに、念仏を唱えながら踊る「踊念仏」(おどりねんぶつ)によって、のちに「時宗」(じしゅう)と呼ばれた教えを全国各地に広めました。時宗が誕生したほぼ同時期に、「日蓮」(にちれん)は仏教経典「法華経」(ほけきょう)の教えを基盤とした「日蓮宗」を開きます。題目(だいもく:南無妙法蓮華経[なむみょうほうれんげきょう])を一心に唱えれば救われると説き、鎌倉を拠点として他宗派を批判しながら布教。他宗派や鎌倉幕府による弾圧を受けたものの、主に関東地方の武士や商工業者の間で浸透していきました。

建長寺(神奈川県鎌倉市)

建長寺

また、関東の武士団を中心として篤い信仰を集めたのが禅宗です。坐禅中心の修行を強調する宗派であり、12世紀末に「栄西」(えいさい)によって宋からもたらされました。

坐禅を組みながら師より出される問題を解決する「公案問答」(こうあんもんどう)と呼ばれる厳しい修行法が、武士の気風と合致。のちに「臨済宗」(りんざいしゅう)として仰がれることになります。なお、臨済宗は宗祖・栄西の死後、当時の鎌倉幕府執権(しっけん:鎌倉幕府将軍の補佐職)であった北条氏によって大きく発展。

北条氏は南宋(なんそう:12~13世紀の中国王朝)から「蘭渓道隆」(らんけいどうりゅう)、「無学祖元」(むがくそげん)といった禅僧達を招き、「建長寺」(けんちょうじ:神奈川県鎌倉市)や「円覚寺」(えんがくじ:神奈川県鎌倉市)などを建立しました。

一方、栄西の弟子による教えをもとに「曹洞宗」(そうとうしゅう)を広めたのが「道元」(どうげん)です。ひたすら坐禅を行う「只管打坐」(しかんたざ)によって悟りを開くことを布教し、「永平寺」(えいへいじ:福井県吉田郡)を開きました。

このように新たな仏教が生まれるなか、旧仏教側にも改革を目指す動きが出てきます。「華厳宗」(けごんしゅう)の「明恵」(みょうえ)と「法相宗」(ほっそうしゅう)の「貞慶」(じょうけい)は共に戒律を重んじながら、旧仏教の復興に尽力。

また、「律宗」(りっしゅう)の「叡尊」(えいぞん)とその弟子「忍性」(にんしょう:別名・良観[りょうかん])も戒律を尊重しつつ、貧困者の救済や社会事業に力を注ぎます。また、旧仏教の各宗派においては、かねて根付いていた山岳宗教を基盤とする「修験道」(しゅげんどう)が浸透。

一方で、神道と仏教が融合した「神仏習合」(しんぶつしゅうごう)の考えも広まるとともに、鎌倉時代末期には「伊勢神宮」(いせじんぐう:三重県伊勢市)の神官「度会家行」(わたらいいえゆき)が、従来の「本地垂迹説」(ほんじすいじゃくせつ:仏の仮の姿が神であるとする説)とは反対の意味を持つ「神本仏迹説」(しんぽんぶつじゃくせつ:神の仮の姿が仏であるとする説)を唱えました。

中世文学のおこり

中世の鎌倉時代においては、文学の世界にも新しい風が吹き込み、飛躍的な発展を遂げます。まず、武家に生まれた「西行」(さいぎょう)は、戦乱の世に背を向けて出家し、無常の世の生き方を問いた私歌集「山家集」(さんかしゅう)にその和歌が収められました。

また、「鴨長明」(かものちょうめい)は動乱期における、転変の虚しさを記した「方丈記」(ほうじょうき)を、そして貴族出身の「慈円」(じえん)は、衰退していく貴族政権を冷静な視点で解説した「愚管抄」(ぐかんしょう)を著します。なお、それらの作品のいずれにも、極楽浄土を願う新しい仏教思想が大きく影響しているのです。

一方、平安時代から受け継がれてきた貴族文化においては、「後鳥羽上皇」(ごとばじょうこう:82代「後鳥羽天皇」の譲位後の尊号)が、「藤原定家」(ふじわらのさだいえ/ていか)や「藤原家隆」(ふじわらのいえたか)らに命じて「新古今和歌集」(しんこきんわかしゅう)を編纂。新古今和歌集の洗練された歌風は、貴族達の間で広く受け入れられるとともに、武士のなかにも和歌を学ぶ者達が現れます。

その代表格とされるのが、鎌倉幕府3代将軍の「源実朝」(みなもとのさねとも)であり、藤原定家を師として仰ぎ「金槐和歌集」(きんかいわかしゅう)を残しました。そんな鎌倉文学において最も注目すべきは、戦乱を題材として実在する武士の生き様を写実的に描いた「軍記物語」(ぐんきものがたり)です。

琵琶法師

琵琶法師

様々な作品が誕生するなか、平氏一門の栄枯盛衰を描いた「平家物語」(へいけものがたり)は軍記物語の最高傑作と言われており、「琵琶法師」(びわほうし:琵琶を弾きながら物語を語る盲目の僧)により、文字の読めない庶民にも広く親しまれるようになりました。

また、説話文学も盛んで「古今著聞集」(ここんちょもんじゅう)など多くの作品が誕生。随筆の名作としては、「吉田兼好」(よしだけんこう)が鋭い観察眼によって人生観や世相観を記した「徒然草」(つれづれぐさ)が広く知られています。

学問の分野においては、貴族達の間で古来の朝廷の儀式や法令について学ぶ「有職故実」(ゆうそくこじつ)や、古典の研究が盛んに行われました。武士の間でも学問がたしなまれ、鎌倉幕府の歴史を記した「吾妻鏡」(あずまかがみ)が編纂されます。

さらに、北条氏一門の「金沢実時」(かねざわさねとき)は、鎌倉幕府の外港として栄えた金沢(かなざわ:現在の神奈川県横浜市金沢区)の地に「金沢文庫」(かなざわぶんこ)を設け、書籍の収集に努めました。

芸術の新傾向

東大寺

東大寺

芸術の分野では、源平の争乱によって焼失した「東大寺」(とうだいじ:奈良県奈良市)の再建を皮切りに、新しい建築様式が誕生。東大寺再建の資金を捻出するため、各地を回って寄付を募った「重源」(ちょうげん)は南宋出身の工人「陳和卿」(ちんなけい)の協力のもと、力強い表現と変化に富んだ構造が特徴的な「大仏様」(だいぶつよう)を取り入れて再建に当たりました。

鎌倉時代中期には、細かな木材による繊細な装飾が特徴の「禅宗様」(ぜんしゅうよう)が南宋から伝わり、禅宗寺院の建築に用いられます。また、大仏様・禅宗様の手法の一部を平安時代以来の建築様式である「和様」(わよう)に取り入れた、「折衷様」(せっちゅうよう)も多く見られるようになりました。

また、彫刻の分野では、奈良仏師の「運慶」(うんけい)、「快慶」(かいけい)、「湛慶」(たんけい)が活躍。奈良時代の伝統を受け継ぎつつ、新たな彫刻様式も取り入れて、写実的かつ豪胆な作品を創作しました。運慶、快慶の合作である「東大寺金剛力士像」(とうだいじこんごうりきしぞう)がその代表例とされています。

絵画の分野では、平安時代末期に誕生した「絵巻物」(えまきもの)が盛んに描かれた他、個人の肖像画「似絵」(にせえ)が発展。「藤原隆信」(ふじわらのたかのぶ)、「藤原信実」(ふじわらののぶざね)父子が有名とされています。さらに、鎌倉時代中期に、禅宗の高僧の肖像画である「頂相」(ちんぞう)を尊ぶ風習が南宋より伝わり、禅僧達の間で浸透していきました。

書道においても宋や元の書風が伝えられ、92代「伏見天皇」(ふしみてんのう)の皇子「尊円入道親王」(そんえんにゅうどうしんのう)は、伝統の和様に宋の書風を取り入れた「青蓮院流」(しょうれいいんりゅう)を生み出します。

同様に陶器も宋・元の影響を受け、尾張国(現在の愛知県西部)の「瀬戸焼」(せとやき)や備前国(現在の岡山県東南部)の「備前焼」(びぜんやき)を筆頭に、陶器の生産が活発化。さらに工芸では武士の台頭とともに、武具制作の技術が発達し、日本刀では京の「吉光」(よしみつ)、鎌倉の「正宗」(まさむね)、備前国の「長光」(ながみつ)といった名工が出現しました。

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