えちぜんやすつぐ
江戸時代前期に、武蔵国(現在の東京都23区、埼玉県、及び神奈川県の一部)と越前国(現在の福井県北東部)で作刀した刀工「康継」。この銘を用いた刀工は、武蔵国で12代、越前国で10代続いており、これらの康継の祖こそ、「越前康継」(えちぜんやすつぐ)です。同工は、通称「下坂市左衛門」(しもさかいちざえもん)とも呼ばれていました。
出身は近江国・坂田郡(現在の滋賀県米原市)。現在の岐阜県大垣市で作刀した「赤坂千手院派」(あかさかせんじゅいんは)の刀工であった父より、作刀の手ほどきを受けています。鍛刀術をひと通り習得後、諸国を遍歴して修行。文禄年間(1593〜1596年)には、官位「肥後大掾」(ひごだいじょう)を受領しており、この時期の作例には、「肥後大掾下坂」という銘が切られています。
「関ヶ原の戦い」直後の1600年(慶長5年)9月、越前康継は、「福井城」(福井県福井市)城主として入国した「結城秀康」(ゆうきひでやす:徳川家康の次男)に作刀の腕を見込まれ、40石を給されてお抱え刀工になりました。1606年(慶長11年)には、結城秀康の推挙によって、江戸幕府の御用鍛冶に就任。徳川家康から「康」の字を賜ったのは、このときです。
そして「康継」が正式な刀工名となり、同時に「徳川家」の家紋である「葵の御紋」(あおいのごもん)を、作例に切ることを許されました。以後、越前康継は、「御紋康継」(ごもんやすつぐ)、もしくは「葵下坂」(あおいしもさか)と呼ばれるようになるのです。やがて越前国と江戸の間で隔年勤務が命じられますが、実際には江戸にいる期間の方が長かったと言われています。これにより、江戸と越前国の両方に、康継を名乗る刀工が生まれたのです。
現在では双方の康継を区別するため、同工について表記する際には、「江戸〇代」や「越前〇代」と、活動地と何代目であるのかを明記されていることが多く見られます。
初代越前康継は、類まれなる技量の持ち主であったため、「大坂の陣」で焼けた名刀の再刃にも携わっています。この名刀は、「豊臣秀吉」が収集した名品であり、同合戦において、「大坂城」(大阪市中央区)落城の折に焼かれていました。
「粟田口吉光」(あわたぐちよしみつ)の「一期一振」(いちごひとふり)や「親子藤四郎吉光」(おやことうしろうよしみつ)、「相州貞宗」(そうしゅうさだむね)の「獅子貞宗」、「三条小鍛冶宗近」(さんじょうこかじむねちか)の「海老名宗近」(えびなむねちか)など、数々の焼けただれた名刀が、越前康継の手によって蘇ったのです。
なお、越前康継は再刃の際、名刀の模作も鍛造しています。また、南蛮貿易で入手した「南蛮鉄」を素材とした作例も存在しており、研究熱心な刀工であったことが窺えます。