はんけい
江戸時代初期の「新刀期」(しんとうき)に入ると、諸国の城下町が日本における作刀の中心となり、多くの優れた刀工が、各地から世に送り出されるようになります。そのほとんどは、大名のお抱え鍛冶であり、扶持(ふち:給与のこと)を給されて、鍛刀に従事していました。「繁慶」もそうしたお抱え鍛冶のひとりです。
通称「野田善四郎清堯」(のだぜんしろうきよたか)と名乗り、一般的には、その姓である「野田」を冠して「野田繁慶」(のだはんけい)と呼ばれています。一方で本名の姓である「小野」を用いて、「小野繁慶」(おのはんけい)と銘を切った作例も存在しているのです。繁慶は、通常「はんけい」と音読みしますが、正しくは「しげよし」と訓読みします。
生年は不詳ですが、生まれは三河国(現在の愛知県東部)、代々鉄砲鍛冶を務める家系でした。このため、繁慶も長ずると鉄砲鍛冶の道に入り、出府(しゅっぷ:地方から江戸に出ること)して、江戸幕府お抱えの鉄砲鍛冶「胝惣八郎」(あかぶりそうはちろう)に入門。独立後は「清堯」を工名とし、武蔵国・八王子(現在の東京都八王子市)に移り住み、鉄砲制作に従事し始めます。
八王子は、甲州街道の抑えの地であり、交通の要衝。当時は甲斐国(現在の山梨県)出身の旧武田家臣が、「八王子千人同心」(江戸幕府の職制のひとつで、八王子に配置された旗本などのこと)として配され、江戸防衛と、将軍の江戸脱出に備えて守りが固められていました。鉄砲鍛冶である繁慶が、毎年木炭1,000俵を給されて八王子に配属されたのも、同地の持つ軍事的重要性と関係あってのことだとされています。
1607年(慶長12年)に「徳川家康」が駿河国・駿府(すんぷ:静岡市葵区)に移住すると、師匠の推挙を受けて随伴。「駿府城」下で鉄砲の鍛造を行いました。この駿府在住時、繁慶は2代将軍「徳川秀忠」(とくがわひでただ)の命により、諸国の一之宮(いちのみや:ある地域において、最も社格が高いとされる神社)や大社に、鉄砲を奉納しています。繁慶が駿府にいた期間は、1610~1614年(慶長15~19年)頃。
鉄砲銘には、「野田善四郎清堯」や「日本善清堯」という表記を用いていました。作刀も駿府在住時に始まっていたと伝えられ、「清堯」と銘を切った作例が稀に見つかっています。ただし、駿府在住時の動向について詳しいことは分かっていないため、この当時に作刀技術を学んだ師匠に関しては不明です。
1616年(元和2年)に徳川家康が死去すると、繁慶は江戸に帰還。鉄砲町に居住して本格的に作刀に取り組みます。従来は清堯と名乗っていましたが、この時期から繁慶の名を用い始めました。作風は「古刀期」の「相州伝」(そうしゅうでん)を理想としており、俗に言う「ひじき肌」が大きな特徴です。
これは「大板目」(おおいため)が肌立って「地景」(ちけい)が入り、「松皮肌」(まつかわはだ)となった鍛えを指します。刃文は「小湾れ調」(このたれちょう)の「乱刃/乱れ刃」(みだれば)に、盛んに「砂流し」(すながし)がかかって「沸」(にえ)付いており、「匂口」(においぐち)が沈む作風です。「茎」(なかご)は「薬研形」(やげんがた)と称する独特な形状です。