初代、及び2代「兼元」の作刀地は、美濃国赤坂(みののくにあかさか:現在の岐阜県大垣市)でしたが、それ以降は、関(せき:現在の岐阜県関市)と赤坂の双方に、兼元家が分散。3代「孫六兼元」(まごろくかねもと)に該当する天文(1532~1555年)時代の「天文兼元」が、数人存在したと伝わっています。
本刀は、乱れた「三本杉」の刃文を焼く2代・兼元(=初代・孫六兼元)と異なり、刃文の三本杉がやや整っています。銘振りから見て数人いた天文兼元の内のひとりで、2代・兼元に最も近い兼元であると鑑することができるのです。