「千代金丸」(ちよがねまる)は、「治金丸」(じがねまる)、「北谷菜切」(ちゃたんなきり)とともに琉球王国の「尚家」(しょうけ)に伝来した、3振の日本刀のひとつとされます。
1416年(応永23年)に「首里城」(しゅりじょう:沖縄県那覇市)を拠点とする中山王国(ちゅうざんおうこく:現在の那覇市、浦添市を中心とした王国で琉球王国の前身)との戦いで、山北(さんほく)国王「攀安知」(はんあち)は、「尚巴志」(しょうはし)の軍勢に敗北。持っていた千代金丸で裏切った重臣「本部平原」(もとぶていばら)を斬殺し、「今帰仁城」(なきじんじょう:沖縄県国頭郡今帰仁村)の守護神である霊石を切って最後に切腹しようとしました。ところが、主を守る霊力のために死ぬことができません。そこで、千代金丸を今帰仁城下の川に投げ捨て、代わりに小刀で自刃。のちに川より回収された千代金丸は、尚家の宝刀となったのです。
千代金丸は、平造り(ひらづくり)のやや細身な刀身(とうしん)に先反り(さきぞり)が強く付いた姿(すがた)。鍛え(きたえ)は板目肌(いためはだ)が流れ、刃文(はもん)は広直刃(ひろすぐは)調で、小互の目(こぐのめ)交じり、総体に足(あし)・葉(よう)がよく入っています。千代金丸は、刃文などの特徴から、鍔(つば)・鯉口(こいくち)・鐺(こじり)などとともに日本本土で作刀されたあと、山北王家(さんほくおうけ)へ伝わったと考えられているのです。
また、「金装宝剣拵」(きんそうほうけんこしらえ)は、柄頭(つかがしら)に6代琉球国王「尚泰久」(しょうたいきゅう)の神号「大世王」(おほよのぬし)を意味する大世の文字が見られることから、のちに尚泰久が制作させた物という説が有力。千代金丸の柄(つか)は片手打ちで、全長に対して短く、日本刀とは異なる形状が特徴です。さらに調査により、鞘(さや)の内側には薄い鉄が貼られており、そのなかへ刀身を収める珍しい構造でもあることが分かっています。なお、拵(こしらえ)の長さは92.1cm、刃長(はちょう)71.3cm、茎(なかご)11.1cm、全長82.4cmです。




