火事装束
江戸時代
おにつたもんかじかぶと 鬼蔦紋火事兜/ホームメイト

「鬼蔦紋火事兜」は、乾漆(かんしつ:漆工の技法のひとつ)の兜に瑠璃色の錣(しころ)と胸当(むねあて:前垂のような物)を備えた火事兜です。
胸と背には白い鬼蔦紋(おにつたもん)を切付(きりつけ:切り抜いた図柄を嵌め込む手法。アップリケ)、金糸で縫い付けてあります。火事装束は1657年(明暦3年)の大火後に普及しました。
備後三次藩(現在の広島県)の領主・浅野長治(あさのながはる)は、屋敷は外桜田(そとさくらだ:日比谷堀・桜田堀と外堀に挟まれた地区。武家屋敷が立ち並んでいた。)にありましたが、江戸城本丸の焼失を知り御機嫌伺いに行く途中、江戸幕府宿老・井伊直孝(いいなおたか)の行列に出会います。
周囲に火の粉が飛びかうなか、木綿羽織の侍従達は火の粉を払うのに大変でしたが、革羽織を着ていた浅野長治と井伊直孝は、火の粉に焼ける心配がありませんでした。これを契機に火事場の革羽織着用が広まります。
やがて革や羅紗(らしゃ)を地に、羽織、胸当、石帯(せきたい:黒皮製の帯)、錣付兜が定番となり、火事装束は急速に普及していきました。